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 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 4
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)7月15日第276号)

●わが国の戦前の諜報員養成機関としては陸軍中野学校がよく知られているが、西川一三も木村肥佐男も中野学校の出身者ではない。昭和一二年(一九三七)に、ジンギス汗第三〇代の末裔徳王(一九〇二~六六)を首席とする「蒙古連合自治政府」が日本の肝煎りで成立して張家口市を首都に定めた。いわゆる「徳王工作」の成果である。蒙古および西域に対する医療・教育・文化面の工作を担当する機関として早くに(昭和九年?)設けられていた「蒙古善隣協会」もこの張家口を拠点とした。蒙古善隣協会は様々な活動を行なって、イスラム教徒子女のために「回民女塾」という女学校なども運営したが、「蒙古並びに西北支那奥地における文化工作要員養成」を目的として昭和一四年四月厚和に創立したのが「興亜義塾」であった。木村と西川はその卒業生である。
「一種の情報機関であったらしい」と海野弘(『陰謀と幻想の大アジア』)がいう「西北事情()研究所」も興亜義塾と同じ厚和に昭和一七年に設立された。後にイスラム教と日本人との関わりを詳しく解説した『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟、一九八八)を書いている小林不二男が所長で江(こう)実(みのる)もいたが、ほとんどは氏名を詳らかにできない者たちの集まりだったのだろう。
 それに比べると、今西錦司を所長に迎え支那西北部から蒙古・西域の学術的な研究を目的に昭和一九年三月に設立された「西北研究所」(張家口)は、石田英一郎や藤枝晃、江上波夫、梅棹忠夫などいう錚々たる人材が集った。
●蒙古善隣協会は大東亜省から資金の提供を受けていたことに示されるように、満洲国の成立に連動する、紛れもない国策機関だった。したがって、わが国にとって戦況が不利になると、自然に活動を縮小する事態となり、最終的に撤退せざるを得なくなるのも致し方のないことであった。先に私は、西川や木村をせっかく養成し起用しながら、その活用に徹底を欠いたと言ったが、わが国にとっては初めての試みである満洲国建国や大陸内部における研究・調査や諜報活動において、むしろよく健闘したと評価すべき点も少なくない。だが、自ら掲げた理想を日本人が内部から踏みにじったことは否めないし、また戦略・戦術において稚拙だったことも事実である。
 その中にあって、いわば思いつきで西域に送られ、忘れられ、そして最期には見捨てられながら、西川一三にしても木村肥佐男にしても、その使命を全うし続けたのだった。謀略活動という極秘任務に従事しながら、立ち往生した隊商の突破口を開くために西川は生命の危険を顧みずガル河の寒流に身を投じて英雄となったのだし、木村もダンサンハイロブと妻ツェレンツォーの絶対的信頼を勝ち得て共に探査行に赴くことになったのも、スパイ容疑で逮捕されたダンサンハイロブの一命を救い結婚の面倒を見たことからだった。●諜報員の養成機関だった中野学校は「誠意と真実をもって秘密戦に従事する戦士の養成」を校是とした。謀略の世界で、それは大いなる矛盾である。だが小野田寛郎少尉などの中野学校出でなくとも、誠意と真実をもって諜報活動に従事した者がある。その端的な例が、西川一三や木村肥佐男である。国家の戦略は稚拙であっても、民はその赴く所で深い交わりを育んでいる。それを我々は継承すべきである。(つづく)