みょうがの旅    索引 

                    

   定住革命の先駆者となった日本 2 
          (世界戦略情報「みち」平成20年(2668)12月15日第285号) 

●三内丸山で縄文人たちが定住生活を営むようになる前に、すでに日本列島では一万年もの定住生活の経験が蓄積されていたことは重要だ。もちろん、一五〇〇年間も長期にわたって同一の場所に緻密な計画性の下で住み続けた三内丸山のような、いわば「縄文都市」とも呼ぶべき巨大集落が成立する以前に、季節ごとに定住地ができるという例もあった。新潟県の三面川(みおもてがわ)縄文遺跡では秋になって鮭が川を上ってくると、三〇〇人ほどが周辺の森から集まってきて定住生活を営んだという。
 定住するとは、家を造ってその中に住みつづけることであり、移動生活には不便な重い土器を作って使用することも定住の生活だからこそ可能になる。 世界でもっとも古いといわれる縄文土器の画期的意味について安田喜憲氏はこう力説している。

 僕は、土器というのは森の産物だと考えています。温帯の森の資源利用のなかから生まれたものです。土器を作るには、まず軟らかい土がないと駄目で、それには森林土壌が最適なのです。焼くためには燃料の木が要る。こねるためには水が要ります。森にはそのすべてが揃っている。……
 土器を作り出したことは、非常に革命的なことです。違う種類のものを一緒に煮て、違う味を出せるわけです。海からハマグリを、山からは木の実や山菜を取ってきてごった煮にすれば、まったく違う味が出る。それから煮沸しますから殺菌にもなる。煮ることで普通は食べられないものも柔らかくして食べられる。ですから、土器を作るということは、「食糧革命」でもあったわけです。(『環境と文明の世界史』五一~五二頁)

●今日まで日本料理の特色となっている鍋料理はすでに縄文時代に成立していたことがよく分かる。日本列島における「食糧革命」は、世界の他の地域のような「農業革命」を通して成し遂げられたものではない。森があり、海があり、川があって、そこにあるものを採ってくるだけで、食糧を求めて移動放浪の不安定な生活をするまでもなく、定住生活を続けられたのである。豊かな自然に恵まれていたお蔭なのだ。
 どうしてかくも豊かな自然に恵まれていたのか。環境考古学の視点から、安田氏は次のように説明している。

 日本列島は一万四五〇〇年前の急激な温暖化のときに、世界に先駆けて温帯の落葉広葉樹の森が拡大しました。列島ですから海洋的な気候によって温暖化し、海面が上昇して日本海に対馬暖流の影響が増加してくるわけです。そして冬は日本海側に雪をもたらし、落葉広葉樹の生育に適した海洋的風土が、世界に先駆けていち早く形成された。その温帯の落葉広葉樹の森の資源と海の幸を利用する道具として土器が生まれたと、僕は考えています。
(文字色強調天童、同書五二頁)

 海面が上昇し黒潮の暖流が分岐して対馬海流となり日本海に流れこむようになったことがそもそもの原因だ、と安田氏は説くのだが、なにゆえにそうした地質・気象的な環境の変化が起きたのか?
 変化の経緯・過程を説明することは学問にできても、なぜそうなったかに答えることは、もはや学問の域を超えることになろう。だが、あえて私は言いたい。それは、この日本列島が、世界に例のない聖地だったからである、と。だからこそ、他に例がないほどに恵まれた環境が形成されたのだ。そうでも考えなければ、この恵まれすぎたわが列島の豊かさは説明できない。