みょうがの旅    索引 

                    

大和へ、そして吉野へ 2 
 (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)2月1日第287号)

●先稿において東京行宮からの速やかな御還幸を願う一文を書いたところ、どうして京都への御還幸ではなくて、いきなり「大和へ、そして吉野へ」なのか、疑問の声が同志飯田孝一氏から寄せられた。まさに天の声とはこういう批判をいうのではないかとハッと襟を正さずにはいられないような鋭い指摘である。
 言われて初めて気づいたのだが、私の中では、「京都への御還幸」ではこの非常時に対処できないとの思いが強固にあり、心急(せ)くまま何の説明もなく、「大和へ、そして吉野へ」となったのであった。
●もちろん、京都をまったく無視してよいはずはない。紛れもなく、京都はわが千年以上の都である。明治天皇が「ちょっと行ってくるよ」と言われたのは、東京で用事が済んだらまた京都に帰るよというお気持ちがあったからであろう。
 ただし、皇統にとっては東京で西洋近代文明に対する防波堤たらんと出御されたのと同じように、山背への遷都もまた、時の国難に対する大御心からの御無理であったのではないかと推察する。当時の歴史を繙くまでもなく、平安京制定の詔「山背国を山城国と改め平安京の號を定め給ふの詔」(延暦一三年一一月八日)を見ると、京都が都とされたのは

「山河(さんが)襟帯(きんたい)、自然(おのずから)に城(しろ)を作(な)す。斯(こ)の形勝(けいしよう)に因(よ)りて」(錦正社『みことのり』平成七年刊に拠る)

とある。つまり、戦時用の砦だったのである。「四神相応の適地」だから、都となったのではないのだ。
 桓武帝の遷都を承けて、京都を永遠の都と定められた平城天皇の詔(大同元年七月一三日)もまた、

「此(こ)の上都(じようと)は先帝(せんてい)の建(た)つる所、水陸(すゐりく)の湊(あつま)る所にして、道里惟(こ)れ均(ととの)ふ。故に?勞(ざんろう)を憚(はばか)らず、期するに永遠を以てす。棟宇(とうう)相望み、規模度(ど)に合ふ」(同)

との理由を挙げてあって、永遠の都を定めた詔にしては余りにも消極的な調子が目立つのである。
 京都は度重なる兵火に見舞われたとはいえ永年の都という地位に安住し、あえて誤解を覚悟して鄙見を述べれば、コスモポリタンの巣窟と化した観さえある。皇統御神事の場には決して相応しくないと考えられる。現在の結構を残すとしても、せいぜい稀に行なわれる外国賓客引接の用途、すなわち迎賓の場とするのが適切ではないか。
●そもそも、「吉野とは何か」との永年の大疑団がここにきて氷解したのは、同志栗原茂氏のご教示のお蔭である。民草にすぎない私にとって吉野御神事の有様など窺う術もないことであった。それを栗原氏は懇切にも、吉野の吉野たる所以を教示下さった。さらに先日、稿成ったばかりの論考を示され、吉野御神事には万全の備えあり、何の心配も要らないと教えられた。その論考にこう書かれている。

 奉公の神格モデルは皇紀暦制定前にも存在しており、先住民も渡来人も、その威徳に順い奉公を身に帯び各種の姓((かばね)家業)を設けていた。この姓に巣立つ異能の先達(せんたち)こそ、皇紀元年から世界各地に配置され、天文気象のほか場の歴史を情報化のうえ、生涯を奉公に尽くして悔い無き人生と自覚する達人(たつじん)である。この先達は男女を問わず幼年三歳ころから世界の結界(けっかい)領域を修験(しゅげん)の場とし、成年一五歳に達すると、その動向は広域に及んで、一旦緩急(いったんかんきゅう)あれば義勇奉公、これ天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)に身を委(ゆだ)ねて惜しまない。この先達たちをいま、「皇統奉公衆」と仮称する。

と。