みょうがの旅    索引 

                      

 牧畜か農耕か ─ シュメル文明の岐路 1 
             (世界戦略情報「みち」平成21年(2669)6月1日第295号) 

●粘土板に刻まれた楔形文字の解読によって明らかになったシュメル神話・文学の中に、「アダミン・ドゥッガ」という分野がある。「アダミン」とは人二人が向き合っている形の文字で書かれる言葉で、「対立」とか「競争」、「論争」、さらには「決闘」を意味するという。また、「ドゥッガ」は「話す」「行なう」という動詞(分詞形)で、全体として「対立して話す」とか「自分の利点を言い募って論争する」というほどの意味になる。
 プラトンの「対話篇」になぞらえれば、それはシュメル版の「論争篇」と称することができる。シュメル版「論争篇」では、二乃至複数の登場者が自分の優れた点を次々に挙げて、自分こそ優れていると、いわば「ディベート」をするのである。
●この「論争篇」に属するシュメル語の作品には、「犬、狼、ライオンと狐」、「家畜と穀物──ラハルとアシュナム」、「鶴嘴と鋤」、「木と草」、「魚と鳥」、「夏と冬」、「銀と銅」、「挽臼とグルグル石」、「二人の学校卒業生」などが数えられている。一連の表題から容易に判るように、各々が自分の利点を言い募って論争する作品である。
 シュメルには学校があった。書記になるための学校である。シュメル人による最後の王朝となったウル第三王朝(紀元前二一一二~二〇〇四)第二代のシュルギ王(二〇九四~二〇四七)でさえ、「私は学校に属し、シュメル語とアッカド語の粘土板で書記術を学んだ。少年の誰一人、私のように粘土板を(上手に)書くことはできなかった」(小林登志子『シュメル──人類最古の文明』中公新書、二〇二頁)と誇っているほどであるから、識字率は極めて低く、ごく少数の限られた裕福な家庭の子弟のみが学校に通うことができたのだろう。それでも楔形文字の書記法を学ぶのは大へんで、生徒たちに少しでも興味をもたせるため教材の内容も工夫された。その成果が一連のシュメル版「論争篇」となった。
●この「論争篇」に一応は属するとされながらも少々趣が異なる作品として、「ドゥムジ神とエンキムドゥ神」なる物語が伝えられている。「論争篇」であるならば、牧畜神ドゥムジと農耕神エンキムドゥが牧畜と農耕とどちらが優れているか激しく論争する物語となるはずである。だが、物語では農耕神エンキムドゥが一方的に譲るばかりなのだ。しかも、事はシュメル最高女神イナンナの配偶者にどちらがなるかという結婚を賭けた論争なのに、である。
 イナンナの兄である太陽神のウトゥも牧畜神との結婚を勧めていたのだが、イナンナは「牧夫なんか絶対いやよ」と言って農耕神エンキムドゥに気持ちが傾いていることを示す。ドゥムジはウトゥの賛同に図に乗ってか、「農夫なんか、いったいどこがこの俺様(おれさま)より優れているというんだ。たかが土手と運河の世話男じゃないか」と農耕神を莫迦にする。挑発的言辞を吐くのみでなく、エンキムドゥの管理する河畔の草地に自分の羊たちを放って荒らすという乱暴狼藉を働く。エンキムドゥは「どうぞ好きなだけ、河畔でも切株畑でも君の羊たちに草を食ませてやりたまえ。……耕地で穀物を食ませてやりたまえ。わがスンガル運河の水を飲ませてやりたまえ。乙女イナンナは君のものだし、イナンナにはお祝いの麦も豆もいくらでも進呈しよう」と暴虐も意に介さず、イナンナとの結婚を祝福さえするのだ。最終的に、イナンナはドゥムジと結婚する。(つづく)