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 牧畜か農耕か ─ シュメル文明の岐路 2
              (世界戦略情報「みち」平成21年(2669)6月15日第296号) 

●シュメルの書記学校で教科書の題材となった農耕神エンキムドゥと牧畜神ドゥムジによる「論争篇」は一方的に牧畜の方が優れていると主張する物語であるが、こういうテーマがごく少数の限られたエリートたる書記の養成学校で教科書に取り上げられたことは、シュメルでは「農耕か牧畜か」という問題が鋭く意識されていたことを窺わせる。シュメル人がどこから両河地方(メソポタミア)にやってきたかは暫く措くとしても、すでに彼らの故地で農耕を知っていたことは確かであろう。
●同志林廣がNHKの放送を録画して見せてくれた『シリーズ四大文明』の「第二集メソポタミア」(平成一二年七月一六日放送)によれば、野生の麦を発見して栽培するようになったのは両河の源流であるトルコ東部山岳地帯を越えたアナトリア高原が最初だろうと言われている。今から約九〇〇〇年前の集落跡であるチャユヌ遺跡からは栽培した麦を刈り取るのに用いた鎌が出土している。全体は山羊の角で、刃の部分は黒曜石などの堅い石の細刃が嵌めこんである。農耕は始まったが、土器はまだ無く煮炊きできなかった。石臼も出土している。麦を擂(す)りつぶし粉にして焼いて食べたのだろう。農耕が開始されたといっても麦の収穫量は微々たるものだった。
●それから二〇〇〇年後、両河地方で農耕が始まる。やがてここでシュメル人は驚異的な麦の収穫量を達成した。紀元前二三七〇年にシュメル都市国家の一つギルスで作られた粘土板を解読した京都大学の前川和也教授は、当時シュメルにおいて麦の収穫倍率(一粒の麦から何粒の麦が収穫できるか)が何と! 七六・一倍もあることを明らかにした。ヨーロッパでは中世の九~一〇世紀に二~三倍、一六~一七世紀で六~七倍、ようやく一九世紀に一〇倍を越え、現在でも一五~一六倍なのである。現在の米国の小麦収穫倍率は約二五倍、日本は五〇倍以上だという。ちなみに日本の米(こめ)は奈良時代ですでに七倍、とりわけ上級田では二五倍を超えていた。現在の日本の米の収穫倍率は一四〇倍! である。米がいかに優れた穀物であり日本人がいかに米栽培に長けているかが、この一事からでも分かるだろう。日本人だけがシュメルの麦の高収穫倍率に驚かないですむ。
●シュメルにおける麦の高収穫倍率は一朝一夕に実現されたものではない。運河を掘って両河から水を引き汲み上げるという多大の労力を要する潅漑によって初めて肥沃な大地にたくさんの麦が実ったのだ。日本の米栽培と同じ徹底的な集約農耕と言える。潅漑農耕による麦栽培こそが、シュメル文明の基礎であった。
 シュメルで文字が誕生したとされる時期(ウルク文化後期、約紀元前三二〇〇年ころ)に作られた「ウルクの大杯」には三段に描かれた浮彫が外面を囲んでいるが、その下段はさらに二分され、上段には羊の群れ、下段には水の流れの上に大麦とナツメヤシが実る豊穣の風景が描かれている。この浮彫に描かれるように、シュメル文明は農耕と牧畜が最初からセットになった「有畜農耕」であったようだ。だが、やがて都市国家が興って人々が美食と奢侈に流れて、牧畜神ドゥムジが行なったような羊による耕地蹂躙の狼藉も見られるようになる。わが大祓祝詞で田地に対する侵犯を「天津罪」と厳しく戒めているが、シュメル社会は「麦よりバターの方が美味しい」と大目に見た。ここに、シュメル文明の滅亡への岐路があった。(つづく)