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 シュメル文明の滅亡 ─ シュメル文明の岐路 5
             (世界戦略情報「みち」平成21年(2669)8月1日第299号) 

●シュメル文明はなぜ亡びたのか?
 身も蓋もない言い方をすれば、農耕を疎かにした結果、麦の収穫量が激減したからである。一時(紀元前二三七〇年ころ)は七六・一倍もの高収穫倍率を誇ったシュメルの麦栽培はその直後から急激に悪化して、紀元前二三五〇年から二二〇〇年までの一五〇年間に収穫量が四割減少し、そのうえ小麦はほとんど穫れなくなったとされる。
 シュメル文明の最盛期とも言われるウル第三王朝(前二一一二~二〇〇四)の時代には潅漑農耕ゆえに土壌の塩化が進行し収穫倍率がさらに減少した。
●内部に弛みが出ると、外敵の侵入は激化する。東北方面からはグティ人が、西方からはシュメル人がマルトゥ人と呼んだアモリ人(後にイシン、ラルサ、バビロン、マリなどの王朝を建てた)がウルを脅かした。そこで、神殿建設どころではなくなって、外敵侵入阻止のために「シュメル版万里の長城」が築かれることになった。シュメル人自身はこの「シュメル版万里の長城」を「バド・イギフルサグ」と呼んでいた。「山岳に面した城壁」という意味である。
 バグダードの北方約八〇キロの所にユーフラテス河とティグリス河を結んで東西およそ二〇〇キロに及ぶ城壁の建設が始まったのは、ウル第三王朝の第二代シュルギ王(前二〇九四~四七)治世第三七年(前二〇五八)のことであった。シュルギ王は「一ヶ月以内に完成させよ」と手紙に書いて督促したが、とてもそんな短期間に完成するはずもなく、二代後の第四代シュ・シン王(前二〇三七~二九)の治世第四年(前二〇三四)の年名が「ウル市の王、シュ・シン神が『それがティドヌムを遠ざける』と呼ばれるマルトゥの城壁を建てた年」となっていることから、四半世紀経ったこの時にようやく完成したか、まだ建設途中だったことが窺われる。ここに言うティドヌムとは、アモリ人の有力な一部族の名前、またマルトゥとは「西方」との意味である。
 シュメル人王朝の最後の王となったウル第三王朝の第五代イッピ・シン王(前二〇二八~二〇〇四)の時代には西方アモリ人ばかりでなく、東方からエラム人も侵攻するようになり、外敵の脅威はいよいよ増した。そのうえ、飢饉も襲った。イッピ・シン王の治世第六年に発生した飢饉は数年間も続き、穀物価格を六〇倍にも高騰させ、首都ウルでさえ食糧不足の危機に直面したようだ。
●シュメル人がその滅亡を自ら歌った哀歌がある。

 ……羊たちは繁殖せず、水路には苦い水が流れ、耕地には雑草が茂り、悲嘆草が生い茂る。……神イッピ・シン王は王宮で敵に捕縛され、捕虜としてエラムの地へと、険しい山岳地帯ザブを越えて海の近くの町アンシャンまで連行されていってしまい、家を追われた燕のごとく、王は自分の都市に戻ってくることはない。
(「第二ウル滅亡哀歌」第一歌より、岡田・小林前掲書、二九六~二九七頁)

 シュメル文明の滅亡を齎したものは、シュメル人自身の驕りであり奢侈と淫佚への堕落であった。それが労多き農耕を疎かにして文明の基礎を荒廃させたのである。今わが日本の現状もまた、同じような奢侈と淫佚に堕し、農耕を疎かにしてはいないか。(おわり)