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  アマルナ宗教改革の教訓 
     (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)2月15日第310号) 

●歴史上には、ある時空の一点にその後の多岐にわたる展開のあらゆる種子が、凝縮されて胚胎されることがあるようだ。本号の栗原稿でも触れられているが、エジプト新王国時代にアテン一神教を創唱したアクエンアテン王の時代(在位前一三五八~四〇ころ)とアテン信仰の聖都アケトアテンとは、まさにそういう歴史を凝縮したような時空の一点であったように思われる。というのも、一神教という自然に反する信仰が誕生して、わずかな期間ではあるものの栄えたのがその時期であり、その地であったからだ。
 エジプトにおける太陽神信仰は古くからあり、下エジプトのヘリオポリスは太陽神ラーあるいはアトゥム信仰の一大拠点をなしていた。アテン一神教はその純化を目指した側面もあるが、アテン神以外のあらゆる神に対する信仰を禁止し、あまつさえ国教となっていたアメン(アモン、アムンとも)神に対する信仰をも禁断したことから、エジプトの一般大衆からは総スカンを喰った。だが、エジプト人の一般大衆に嫌われてもアテン一神教は信者には事欠かなかった。エジプトは先代のファラオたちによる度重なる遠征によってオリエント世界に一大覇権を打ち立てて、当時未曽有の繁栄を謳歌し、首都でもあったアケトアテンには各国の王の子弟をはじめとして各地から連行されたり訪れてきたりした外国人が数多くいたからである。聖都アケトアテンは国際都市だった。
●唯一なる神であるアテンの声を聞くことができるのは一人アクエンアテンのみとされ、「唯一絶対の神」に対する「唯一人の預言者」という一神教の基本構図がここで成立した。そして、一神教の信者たちが社稷の地を離れた寄る辺なき国際人であるということもすでにここに見ることができる。もちろん、ファラオたるアクエンアテンとその近親者や書記を含むエジプト宮廷の人々も信者の中核を為していたが、彼らはアテン信仰団のいわばエリートたちで、数は限られていた。
●だから、アクエンアテン王の治世第六年八月にアメン信仰を禁止して本格的に始まったアテン一神教が治世一九年目の王の死とともに一挙に瓦解したのも驚くには当たらない。エジプトにおける一神教の時代はたかだか一五年前後のごく短い期間に過ぎなかったのである。
 そして、今度はアテン一神教が禁止された。王族たちはアテン信仰に基づいた名前からアメン信仰の名前へと改名し(例えばトゥット・アンク・アテン→トゥット・アンク・アメン=ツタンカーメン)エジプトに留まることができたが、アテン信仰の書記(=神官)たちと外国人とはエジプト在住を禁止され、国外への追放処分となった。信者の追放処分を含めアテン信仰の一掃とアメン信仰への復帰の総指揮を執ったのが少年王ツタンカーメンの次にファラオとなったアイであった。
●エジプトから国外追放処分にされたアテン信仰の神官たちと一般の外国人信者たち、彼らは後に自らイスラエルと称し、あるいはユダヤ人と呼ばれることになる。
 そして皮肉にも、ファラオ・アイはユダヤ人の神ヤハウェとして畏怖され、信仰されるようになる。アラム語聖典に言う「わが主」とはアイ王のことである。
 ところで、先ごろ一月一〇日付日経新聞日曜版「美の美」の古代エジプト特集記事に、そのアイ王について触れられていたのには驚いた。王名表からも削除されたアイはほとんど一般には知られていないファラオなのである。アマルナ宗教改革の教訓を忘れるなという意味だと受け取ったのは私だけだろうか。