みょうがの旅    索引 

                      

 北方ツラン民族同胞を慰霊する碑がある 2 
              (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)6月1日第317号) 

●樺太敷香(しすか)で陸軍特務機関長を務めた扇貞雄氏が「北方異民族慰霊碑」を神戸の護国神社境内に建立するきっかけとなった人物がいた。ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ( Dahinien Gendanu、日本名=北川源太郎)というウィルタ人である。その名前は「北の川のほとりに住む者」を意味するという。
 ウィルタ人とは聞き慣れない言葉であるが、かつて近隣のアイヌ人から「オロッコ」と呼ばれ、日本には樺太を踏査した間宮林蔵の報告によって知られることになったツングース系の北方民族である。その「オロッコ」というのは蔑称で、自ら「ウィルタ」を名乗っているので、それを尊重して従うことにする。因みに、ウィルタ民族は樺太の中部から北部にかけてトナカイの牧畜や狩猟・漁撈を生業として、細い木の幹から採った柱を何本も組んで外側を毛皮で覆った円錐形の天幕で暮らしていた。二〇〇二年のロシア国勢調査によると、オホーツク海沿岸の樺太北部および南部の敷香(ロシア名ポロナイスク)近郊に、わずか三四六人が居住しているという。
●昭和一七年、敷香にあった陸軍特務機関は樺太の少数民族の若者たちにも招集をかけて、ソ連軍の動きを探るための諜報活動に用いることにした。当時敷香に在住していた「オロッコ族」の二二名と「ギリヤーク族」(ニヴフ)一八名も日本名を付けて諜報部隊に所属することになった。敷香特務機関の配下の少数民族の若者たちは、総数で六〇名に及んだという。その内の一人がゲンダーヌであった。
 ソ連の参戦と日本の敗戦後、彼らはシベリアに抑留された。一〇年間の強制労働によって六〇名中の実に五九名が死亡、残ったのはゲンダーヌただ一人だった。昭和三〇年に抑留を解かれ帰国することになったが、樺太は今やソ連の占領下にあって帰れず、舞鶴に引き揚げてきた。
●二一年後の昭和五一年五月一三日に参議院内閣委員会においてこの問題を採り上げた共産党の参議院議員小笠原貞子の質疑には、その間の様子がこう紹介されている。

 終戦になりました。北川さんは仲間とともに日本軍人としてスパイ容疑で諜報活動をしていたということでソ連軍につかまって軍事裁判を受けて、そしてその結果、重労働として八年の刑を受け、シベリアに八年間抑留されていた、こういうわけでございます。そして昭和三〇年、北川さんは刑期を終えてやっと復員してきたわけですけれども、日本の戦犯になったということでございますので、気がひけて自分のふるさとであるオタスの森にも帰られないというわけで舞鶴に引き揚げてまいりました。そのとき北川さんに手渡されたものは毛布五枚と下着、米穀通帳の引きかえ券、当座をしのぐ一万二千五百円というお金だけでございました。これが北川さんの人生の十八歳から十三年間ふるさとを失い、貴重な青春を棒に振った代償でございました。

●おそらく北川源太郎が国会で問題になったことを知って、扇貞雄氏は網走まで会いに行ったのだろう。そして、「私があのとき責任を持って召集をした。たいへん苦労をかけていまなお解決できない、まことに申しわけなかった」と詫びたという。「解決できない」とは、北川源太郎が少数民族への軍人恩給支給を国に訴えていた問題を指す。どんなに詫びても、個人が国家の肩代わりをすることはできない。しかも、扇氏は戦後に始めた会社が破産したばかりの苦境にあった。(つづく)