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 北方ツラン少数民族ウィルタ人ゲンダーヌ 1 
               (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)7月1日第319号) 

●待っていたダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(北川源太郎)の口述を筆録した本が届いた。田中了とD・ゲンダーヌの共著という体裁の『ゲンダーヌ──ある北方少数民族のドラマ』(現代史出版会一九七八年刊、徳間書店発売)の中で、扇貞雄氏に関する記述を探してみた。その二一頁に、ゲンダーヌの思いは記されていた。

 当時、私たちに召集令状を出した扇貞雄特務機関長は、私たちが戦没したものと考えられ、神戸護国神社境内に「北方異民族慰霊之碑」を建立されて霊を祀って下さいました。私は今年(一九七五年)八月五日、慰霊碑に参拝し、亡き戦友たちに私が健在であること、死んだ戦友が軍人として認められるまで、北川源太郎は一人になっても頑張ることを誓いました。
 扇貞雄元少佐が網走に来て、「申訳けなかった」と謝られ、その後、当時の上官だった南部、大田曹長も網走に来られ、「源ちゃん、すまなかった」と私の手をにぎり、私をはげまして下さった時、いよいよ私も旧軍人として証明されることに確信をもちました。
 いま私は建設労務者(日雇い)として、未だに結婚の出来ずに一人暮らしをしておりますが、現在の心境は一日も早く軍人恩給を支給され、かつて私らが日本軍人として戦ったことを証明して下さることを心から願う次第です。

●これを読むと、まず扇氏が慰霊碑を建立したこと、それを知ったゲンダーヌが神戸の慰霊碑に参拝し、その後に扇氏が網走にゲンダーヌを訪ねて謝罪した経緯が分かる。
 最後の一節の調子は「おやっ?」と思わせるが、それはこの文章全体が時の厚生大臣田中正巳に宛てた軍人恩給の「恩給申立書」であることが分かると、納得されよう。署名は「北川源太郎」となっている。そして申立書の日付は、昭和五〇年一二月二〇日となっている。シベリア抑留で歳月が流れたため、戦後三〇年を経ての「軍人恩給申立書」なのである。
●扇氏や直接の上官たちに謝られてもゲンダーヌの生活がどうなるわけでもない。「北川源太郎」の日本名で申立書を提出したゲンダーヌは、明けて昭和五一年一月に北海道北見市で開かれた「オロッコ文化を守る講演と演劇の夕べ」でウィルタとして生きていくことを宣言する。少数民族オロッコであることが分かると差別されるので、それを隠して生きてきたのだが、これからは堂々と少数民族であることを明かし、たとえ差別を受けても挫けることなく生きようと気づいたからである。

 ……年までの私は「オロッコは亡びゆく民族です」と小さくなっていました。私自身、オロッコであることをかくして、日本人になろうとしていました。しかし今はちがいます。皆さんに激励され、わたしは日本人であることよりも、オロッコとして生きることを決意しました。それはオロッコ文化を守るためです。オロッコ文化は、オロッコ自身の手で守らねばならないことに気がついたからです。……

 このゲンダーヌの決意に私は満腔の賛意を表わしたい。当時のゲンダーヌはまだ自ら差別語の「オロッコ」を使用して魂の自立宣言をしたのであるが、それにもやがて気づいて行く。国家の統治政策の尖兵たる学者どもの単なる研究対象に成り下がってはならない。自らの文化は自ら守るしかない。この単純な真理にゲンダーヌは目覚めたのだ。それは日本人「北川源太郎」を捨てて踏み出した新たな一歩であった。