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 北方ツラン少数民族ウィルタ人ゲンダーヌ 2 
               (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)7月15日第320号) 

●日本人であることを捨ててウィルタ人として生きていくことを堅く誓ったゲンダーヌではあったが、生まれ故郷の樺太の地は、全島をソ連が占領していた。トナカイを追って暮らす遊牧の生活は、もはやそこにはない。自らは北海道網走市に住んで日雇いで生計を立てる日々である。本来のウィルタ人たることと現実の日本人としての暮らしの間でゲンダーヌが何度も揺れ動いたことは、想像に難くない。
 そして、ウィルタ人と日本人の狭間での苦難は、ゲンダーヌが生まれた時からすでに約束されていたかのようである。もともと樺太も北海道もアイヌやウィルタ、ニクブン(ギリヤーク)など北方系民族の天地であった。彼らの多くは明らかに日本人の北方系源流「ツラン」と同じ流れから誕生した同族である。
●ただ、寒冷の北地に留まって漁撈・遊牧を主とする生活を送った者と、さらに南下しやがて稲作を中心に国家を形成した者とは、大きく異なることになった。南に下って行った者はさらに南方から北上した者たちと合流、また大陸や半島からの流れとも合流して「日本人」なるものを形成したというのが、最近の遺伝子DNA分析も踏まえた日本人源流説である。同じ集団から分かれてからの時間的距離はせいぜい二万年から三万年にすぎず、一万年という場合もあるだろう。
 青森県三内丸山遺跡は一つの集落に定住して何千年も生活を続けたという意味で、移動を主とする北方系同族と明確な一線を画した歴史的遺跡である。徹底した管理による栗の栽培農業が、長期にわたる集団生活の維持を可能にしたと見られている。
●東方征服の野望に駆られたロシアはユーラシア大陸を長駆して東方海岸に達し、北の天地に暮らす少数民族の生活を脅かすに至った。わが日本もまた、近藤重蔵や間宮林蔵、松浦武四郎らの北方探検・報告により豊かな北方資源にようやく覚醒し、また北辺を脅かすロシアの脅威にも対処を余儀なくされ、ここにロシアと対峙することになったのであった。その総決算が日露戦争である。
 戦争の結果結ばれたポーツマス講和条約で日本は北辺の領土を確定した。樺太島は北緯五〇度をもって南北に分断されることになる。ロシア人や日本人がやってくる遙か前から樺太に暮らしていたウィルタやニクブンなどの北方民族は自由な往来ができなくなった。それのみならず、根本的に生活様式の違う少数民族に、やがては定住生活を慫慂(しょうよう)するに至るのである。
●もっとも、ポーツマス条約締結後のしばらくは少数民族放置の状態が続いた。日本による少数民族政策が始まるのは、昭和元年に樺太島中南部東海岸にあるタライカ湾に注ぐ幌内川河口に少数民族集住地「オタスの杜(もり)」を建設して以降である。これを北米の先住民インディアンを強制集住させた居留地と同じだと見る見方もあるが、当初は来るも去るも自由に任せて、強制的なものではなかったようである。現に、ゲンダーヌはオタスの杜が建設されたころ生まれているが、出生地はオタスの杜ではなく、幌内川を挟んで対岸にある小さな部落サチであった。しかし、日本人がやってきてウィルタの暮らしが大きく変わったことは紛れもない。
 オタスの杜の地は幌内川が支流敷香川と分かれるところに形成された三角州で、その付近にはウィルタやニクブン、ヤクート族も住んでいた。ゲンダーヌはオタスの杜の学校(!)に通う。