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 ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 2 
       (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)10月15日第325号) 


●古人大兄皇子が語った「韓人、鞍作臣を殺しつ」という言葉は、実は古来より解釈を悩ましてきた難題である。皇極四年(西紀六四五)の六月一二日に宮中で起こった蘇我入鹿殺害事件を踏まえて、この言葉を素直に読めば、事件の首謀者である中大兄皇子を指していることは明らかなのだが、どうもすっきりそう認めたくない思惑がはたらいているようである。
 そもそも日本書紀の本文に挿入された割注からして「韓政に因りて誅せらるるを謂ふ」とあって、誤解に導こうとする意図が見え見えである。つまり、蘇我入鹿は「韓風の政治を行なった罪で殺されたのだ」という意味だとしているのだが、古人大兄の発言の趣旨を意図的にすり替えるものと言わざるをえない。大化の改新から壬申の乱へと至る一連の激動を経て纏められたわが国の最初の歴史記録に「韓人、鞍作臣を殺しつ」とあるからには、まずそれを素直に読んで、然る後にその意味を穿鑿すべきであろう。
●とりあえずは、聖徳太子の摂政期を含んで入鹿殺害までの蘇我政権があり、蘇我氏打倒から壬申の乱までの中大兄皇子=天智天皇による「大化の改新」政治があり、そして天智天皇遺児大友皇子と大海人皇子=天武天皇の対立から生じた「内乱」を収めることにより、天武天皇および持統天皇による統一が成就する、という流れを問題にしよう。
 この流れの中で、書紀割注にある、「韓政」(からひとのまつりごと)と呼ぶにもっとも相応しいのは、中大兄皇子すなわち天智天皇による改新政治であった。国を失った百済を救済するために大軍を催して遠征し白村江の戦いで大敗を喫したのである。日本書紀の筆は蘇我政権にこと寄せて、中大兄=天智天皇の弊政に筆誅を加えたのだと考えられる。
●蘇我政権を「韓政」と呼ぶには憚られるものがある。古人大兄皇子の言葉に注目した数少ない著作の一つが建築家渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』(二〇〇四年、新人物往来社刊)だが、日本書紀において皇位を窺う僭越の振る舞いから悪者と決めつけられている蘇我氏を渡辺豊和は「倭国」とは別の「扶桑国」の王族であったと考え、倭国が支那南北朝期の南朝諸国(宋、粱)と通行したのに対して、扶桑国王蘇我氏は北朝とくに北魏と親交を結んだという。日本書紀は蘇我氏の親北朝政策をあえて「韓政」と記したのだと渡辺はいう。
 蘇我氏は聖徳太子・馬子以来、隋唐との交流に全力を尽くしていて、朝鮮半島には継体系の人々ほどには興味を示していない。彼らは開明型国際派であり、それは入鹿になっても一貫して変わらなかった。それが「韓政」という注記であろう。また聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮洋式ではない、という伊東忠太の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて五〇年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があった……。(六九頁)
 扶桑国からその洛陽にあったという扶桑館に派遣された者こそ、蘇我政権の外交官だった、というのが渡辺豊和の考えである。だからこそ、蘇我氏の一員だった聖徳太子が作らせた仏寺や仏像が北魏様式であったのだ。
(つづく)