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 ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 5 
       (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)12月1日第328号) 


●日本列島における政治勢力は歴史の初めから一つに纏まっていたわけではない。いわゆる「大和朝廷」が日本列島を統一するまでには、それぞれの地域に強盛な勢力が割拠して、互いに覇を競った時期があったことは、記紀にも記されている。大和朝廷の成立以前のそうした地域勢力をどう捉えるかは、それぞれ見解が分かれる所だろうが、渡辺豊和は『梁書』に拠って、古代の日本には、「倭」「文身国」「大漢国」「扶桑国」と呼ばれる四つの国があったとする説に注目をしている。「倭」とは九州勢力、「文身国」は出雲、「大漢国」は河内(大和も含むか?)、「扶桑国」は計算上は北海道渡島半島付近となるが、東北地方全域に及ぶ勢力であったろうと渡辺は考える。
●『梁書』は唐の貞観三年(六二九)に着手、七年の歳月をかけ貞観一〇年に完成された支那南朝の梁(五〇二~五五七)についての正史である。南朝に梁が存続した時期に、北朝では北魏(後魏とも、三八六~五三四)が滅亡して、東魏(五三四~五五〇)と西魏(五三五~五五六)に分裂、その東魏が北斉(五五〇~五七七)に替わり、西魏を北周(五五六~五八一)が継ぐという王朝の変転があった。
 わが日本においては、皇紀一一五八年(四九八)に即位した武烈天皇から欽明天皇(五三九~五七〇)まで五代の天皇の御代に相当するが、この間の武烈天皇から継体天皇への継承を事実上の王朝交替だと考える史家もある。渡辺豊和も王朝交替があったと考える一人で、越前の継体王朝と東北・東国の蘇我王朝との連合によって継体天皇が河内から大和へと進出したと見る。
●さて、問題の「扶桑国」については、『梁書』の「列伝第四十八諸夷」の巻の「東夷諸戎」の項に収められている。ここに、高句麗、新羅、百済に続いて倭、文身国、大漢国、扶桑国に関する記述がある。倭の記事はおよそ六〇〇字、文身国については百余字、大漢国はわずか三〇字を費やすのみ。扶桑国について渡辺は四カ国の中でもっとも多いと紹介したが、調べてみると、倭とほぼ同じ六〇〇字弱である。先に紹介したように、「扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云」という情報源の記事や、罽賓国よりの仏教流伝を伝える「其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人遊行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改」という記事は「扶桑国」についての記述である。
●荒唐無稽の記述もあるので、支那の正史だからといってすべてを信用するのは短慮に過ぎようが、扶桑国の沙門慧深が南斉永元元年(四九九)に荊州に来て語ったとする話の冒頭において、扶桑国の国名がその国土に多く生えている「扶桑」の樹に因むと言っている下りには注目すべきであろう。そして、「扶桑葉似桐、而初生如筍、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿」という説明からすると、扶桑木とは林檎の樹と考えるほかないように思われる。植生環境に大変動がないとすれば、いま林檎の樹が生育するのは主に東国ないし東北地方であるから、扶桑国の領域も東国・東北地方としてよいだろう。さらに、高句麗の記事に先だち「東夷諸戎」の項の説明が数十字ある中に「扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故並錄焉」とわざわざ断ってあるのは、扶桑国が昔は聞いたことのない新興国だが、信頼すべき情報があるので載せたと言っている点も重要である。(つづく)