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 ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 6 
       (世界戦略情報「みち」平成22年(2670)12月15日第329号) 


●『梁書』(唐貞観一〇年[六三六]完成)の「諸夷列伝」中、「東夷諸戎」の項に当時の朝鮮半島にあった高句麗、百済、新羅の三国と、わが日本列島にあった倭、文身国、大漢国、扶桑国の四ヶ国とを挙げて略述するに先立ち、総説的なコメントを短く記している中に、「扶桑国、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故並錄焉」とわざわざ説明しているのは、支那正史に初登場の「扶桑国」なるものについて予め断っておく必要を感じたからだろう。今まで聞いたこともない国だが、普通年間(五二〇~二七)に扶桑国からやってきたという「道人」があって、その語るところ非常に詳細で、信ずるに足る。そこで、扶桑国を東夷の一国として挙げた、というほどの意味であろうか。
●ここに言う「道人」とは何者を指すのか私には分らないが、扶桑国のことを伝えたもう一つの情報源として、斉の永元元年(四九九)に荊州に渡来した沙門慧深(えしん)を挙げているから、仏教の僧の場合は、「沙門」と呼んだのである。さて、「道人」とは何を指すのか、気になるところではある。だが、いずれにしても、沙門慧深が扶桑国からやってきた以外に、梁の時代になってからも扶桑国から渡来した「道人」があり事情を伝えたから、扶桑国の存在はいっそう確かなものとなったのだ。
●扶桑国への仏教伝来についても、宋の大明二年(四五八)に罽賓(けいひん)国から五人の比丘が遊行してきて仏法を広め、経典と仏像を伝え、扶桑国の人間を出家させた、と非常に具体的に記録している。梁の創業者である武帝蕭衍(しようえん)が熱心な仏教信者であったから、扶桑国の仏教事情についても特別の関心をもって記録されたのかも知れない。それにしても、罽賓国からやってきた五人の比丘によって仏教が伝えられたとは、聞き慣れないことである。
●罽賓国と支那とは、漢の武帝以来の使節往来があり、その国情についても相当に知られていた。「葱嶺の南」の「四山中に居り」、「罽賓の地は平ら」などという地理環境にあったとされているから、パミール高原の南に位置するインド西北部のカシミールないしはガンダーラ地方を指すことはほぼ間違いない。白鳥庫吉は「漢から晋代の罽賓国はカーブル河の下流域を指してKapunと発音し、東晋から南北朝時代の罽賓国はカシミールを指し、隋唐時代の罽賓国は迦畢試およびガズニー地方を指す」と『罽賓国考』で考証している。もと天山山脈の北側、キルギス共和国北西部にあるイシククル湖周辺にいた塞(サカ)族が匈奴の圧迫を受けた大月氏に追われてヒンドゥークシュ山脈を越え、インド西北部の高原地帯に建てたのが罽賓国だとされている。罽賓国は仏教を国教とした。それも当然で、釈迦の似姿を作るのは畏れ多いとしてわずかにその足跡を象って礼拝した仏教徒が「仏像」を作るようになるのは、アレキサンダー東方遠征が遺したギリシア文明の影響からで、北インドのマトゥラーと共に仏像発祥の地とされるのがガンダーラであり、そこに罽賓国を建てたのが塞族であった。
●では、その塞族とは何者か。なにゆえに万里の険路を越えて扶桑国にまで仏教を伝えたのか。蘇我氏がトルコ系騎馬民族の「高車」とすれば、サカ族は騎馬民族同士、旧知の間柄だった。(つづく)