みょうがの旅    索引 

                      

 すべては第五福竜丸の水爆被曝から始まった
                (世界戦略情報「みち」平成23年(2671)6月15日第340号) 

●マーシャル諸島近くのビキニ環礁で昭和二九年三月一日に行なわれた米国の水爆実験によって焼津港所属の遠洋マグロ漁船第五福龍丸が深刻な被曝に遭ったことは日本の原発建設に関するすべての始まりだった。日本漁船被曝のニュースは読売新聞が三月一六日に報道した。マグロの値段が急落し半値になった。原水爆実験禁止の署名運動が澎湃(ほうはい)として起こり、禁止に賛成する署名が三〇〇〇万人にも達した。
 一方米国は早くも四月二二日の時点で国家安全保障会議NSCの作戦調整委員会OCBなる政府機関において、「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を作製、同時に対策として「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする」と明記し、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」という悪魔の決定を行なっていた。日本での原水爆実験禁止運動の盛り上がりを深刻に受け止め、何が何でも湖塗するという決意のほどが窺える。そのため対日対策の日本側代理人として米国に使われた人物が、正力松太郎とその懐刀といわれた柴田秀利、そして政治家中曽根康弘である。
 ちなみに、九月に第五福龍丸の無線長だった久保山愛吉さんが死亡したことについて、日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米国は現在に至るも「放射線が直接の原因ではない」との見解を変えていない。
●柴田秀利(一九一七~八六)は報知新聞出身で、敗戦後に連合軍総司令部GHQの担当記者となったきっかけでCIAのエージェント(暗号名ポハルト)となって使嗾され、読売新聞社員のままNHK嘱託を兼ね初代のNHKニュース解説者ともなった。米国から「何とかしろ」と言われた柴田について、佐野真一による正力松太郎の評伝である『巨怪伝』には次のように出てくる。

 ……放射能の影響からマグロの値段が半値に暴落し、東京・杉並区の一主婦から始まった原水爆実験禁止の署名運動がまたたく間に三千万人の賛同を得ていたころだった。……数日後、柴田は結論を告げた。日本には昔から、毒をもって毒を制するという諺がある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない。この一言にアメリカ人の瞳が輝いた。

●翌昭和三〇年正月元旦号に読売新聞は第一面で「原子力平和使節団招待」という社告を掲げた。

 原子力は学問的に見ても、とっくに技術開発の段階さえ終わり、工業化と経済化への時代、それも輝くばかりの未来性を暗示する時代に来ている。広島、長崎、そしてビキニと、爆弾としての原子力の洗礼を最初にうけたわれわれ日本人は、困難を押し切ってもこの善意により革命達成の悲願に燃えるのは当然だ。

 ビキニ水爆実験の前年の昭和二八年七月から一一月まで中曽根康弘は米国に滞在した。ハーヴァード大学国際問題研究会の夏期ゼミナールに出席して、キッシンジャーの薫陶を受けた。帰国した中曽根はビキニ水爆実験の二日後に原子力予算案を提出した。二年後に「原子力委員会」が発足、正力松太郎が初代委員長となった。中曽根は委員長を二度務め、息子の弘文も就任した。