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  二・二六事件と近衛上奏文 3 
        (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)1月15日第352号) 

●大東亜戦争の敗色濃厚となった昭和二〇年の初めの時点で、近衛上奏文が「敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも……、敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存ず」と自信の程を示し、さらに「国体の護持の建前より、最も憂ふべきは、敗戦よりも、敗戦に伴ふて起る事あるべき共産革命に御座候」と断じた見識に皇道派の考えが色濃く反映されていることは、山口富永氏の著書『近衛上奏文と皇道派』によって初めて教えられた。
 その皇道派と対立する統制派の思想とは何か。近衛上奏文で「戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来、今日の事態まで時局を推進し来りし軍部内の、かの一味の存在」とまで極言し、天皇に対して警戒を呼掛けたのはなにゆえか。
●満洲事変後の昭和八年六月に二度にわたって開かれた陸軍省と参謀本部の合同会議である「省部会議」に山口氏は注目している。防衛研究所戦史室編『大本営陸軍部』によれば、この会議は「画期的な軍政改革断行に先立ち、国防の見地から、わが国として最も危険を感ずる相手国を想定して、これに対する自衛の方策として、これに対する自衛の方法を考究する」ことを目的とした。陸軍省から荒木貞夫陸軍大臣、柳川平助陸軍次官、山岡重厚軍務局長、山下奉文軍事課長が出席、参謀本部から真崎甚三郎参謀次長、梅津美治郎総務部長、古荘幹郎第一部長、永田鉄山第二部長、小畑敏四郎第三部長、鈴木卒道作戦課長らが出席したこの会議で、永田鉄山がただ一人「従来から抗日、侮日飽くなき中国問題を力をもって処理した後に、ソ連に当たれ」と主張したのに対して、大方の意見は「(一)ソ連一国を目標とする自衛すら、今日のところ困難が予想されるのに、さらに中国をも敵とすることは、現在のわが国力をもってしては極力避けるべきである。(二)中国と全面的に戦うことは、わが国力を極度に消耗するのみならず、短時日にその終結を期待することは至難であるのみならず、東洋民族である中国とはあくまで和平への途を求めるべきである。そして中国大陸に足を踏み入れることは、全面戦争になるおそれがある」と考えるもので、特に小畑敏四郎が強硬論者だった。
 かくして「対ソ自衛」を大綱として第二回会議で最終決定が行なわれたが、永田鉄山部長は「旅行中を口実に故意に欠席」したという(五四~五六頁)。
 この昭和八年の省部会議の最終決定がその後に活かされていたならば、大東亜戦争もその敗北もなかったはずである。ところが、現実の歴史はそうはならなかった。省部会議の決定を覆した統制派の策謀があったからである。
●平成八年八月一四日の讀賣新聞は、統制派による「戦争指導計画書」が現存していることを伝えた。細川護貞著『情報天皇に達せず』に、「小畑中将の知人にて、梅津大将の子分の池田純久がかつて企画院にあって作成せる文書を手に入れたる人あるも、それには計画的に支那事変を起し、日米戦争までもってきて、我が国の制度を一変し、ソビエトのそれの如くせんとの意図を看取するを得るものなりと。軍中央部として国家革新の方向を決めねばならぬとし、池田純久のほか、田中清少佐、四方諒二少佐が、昭和八年九段の階行社で協議し、立案し、永田以下のメンバー全員に示し、つくり上げたが、百頁にわたる文書である」とあるもので、統制派によるこの「戦争指導計画書」が日本を泥沼の戦争に導いたのだ。