みょうがの旅    索引 

                    

  わが入唐僧を助けた渤海と新羅 
        (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)2月15日第354号) 

●わが日本の先人たちの多くが折あるごとに唱えてきた身滌大祓(みそぎのおほはらひ)の祝詞に、黄泉の国から命からがら生還した伊邪那岐命が冥界の汚れを祓う下りがある。

……筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の(たちばな)小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に御祓祓(みそぎはら)へ給ひし時に……

という下りである。その伊邪那岐命が禊祓を行なったとされる地に建つのが小戸(おど)妙見神社だが、ここで本年二月六日に天啓を得て、いよいよ執筆を決意したという中村光蔵さんの連載「みょうがの旅」が本号より始まった。中村さんの知遇を得てから早六、七年は経つだろうか。
 出会いの最初から時を忘れて話し込むという楽しい機会がこれまでに何度もあった。中村さんが探訪先で撮った写真を交えながら語るのを私がもっぱら拝聴するという形に落ち着くのに時間がかからなかったのは、中村さんの話が余計な半畳を入れさせぬほどに面白かったからである。
●さて、どういう展開になるだろうかと想いを巡らしていると、摩多羅神については必ずや出てくるはずだなどと勝手な期待が膨らんでくる。そのときふと、摩多羅神をわが国にもたらしたのは慈覚大師円仁であることを思い出した。
 承和五年(八三八)六月に博多津を船出してから承和一四年に帰り着くまで九年半にも及ぶ苦難の連続の旅を詳細に記録した円仁の大旅行記が『入唐求法巡礼行記』である。かつての駐日米国大使ライシャワーが研究・英訳して世界に紹介したことから、一四世紀前半にイベリア半島から支那の杭州さらには大都まで旧大陸の端から端まで経巡ったイブン・バットゥータの旅行記より五〇〇年も前の、質の高い旅行記として話題を呼んだ。
●円仁が支那における文殊菩薩信仰の中心地であった五台山を訪れたとき、ここを訪れた日本人は二人目だと言われたが、最初の日本人は霊仙(りようせん)三蔵という僧であった。五台山で毒殺されたために、帰朝することも一宗の宗祖となることも叶わなかったのでわが国ではほとんど知られていない。
 この霊仙三蔵という僧は最澄や空海、あるいは円仁や円珍など、わが仏教の礎を据えた入唐求法の高僧たちに比べて勝るとも劣らない傑物だったようだ。唐朝における官営の仏典翻訳所で、「筆受」および「訳語」を務めたほどである。筆受とは西域僧が詠みあげるサンスクリット語乃至中期マガダ語で書かれた仏典を耳で聞きたちどころに漢文に書きとめる役目を謂う。また、訳語とは単なる通辞・同時通訳者ではなくて、筆受が書きとめた漢訳草稿を推敲し、いわば勅認版として遜色のない、立派な漢訳仏典になるよう監修する役目である。
 空海や最澄、橘逸勢らとともに第一八次遣唐使の一員として渡唐したとき霊仙は四五歳だったので、日本にあったときすでに梵語・漢語に通じていた。唐朝皇帝祈祷僧たる内供奉・十禅師にも任じられたとは語学天才の青白きインテリと思いきや、五台山ではわが身の肘を焼き文殊菩薩に捨身供養するという激しい行も実践した。行基に匹敵するような行動力の人でもあったのだ。同じく長期滞在した円仁も苦労したように、時は武帝による仏法受難時代。広い唐土で苦難していると聞こし召された淳和天皇は渤海僧貞素(ていそ)に託し砂金を送られた。一説に、玉体護持にのみ修される大元帥明王法(だいげんすいみようおうほう)を日本に伝えようとして唐朝の国禁に触れたともいう。霊仙に勅意を届けたのが渤海であり、円仁を全面的に支えたのが新羅だったが、かつて日本と半島とはかくも親密な協力関係にあったのである。