十二支族考 索引 

                      

 突厥・ハザール興亡史論 3 バアル信仰と海の民
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年3月1日第355号)


●正統南王国と雑種北王国の対立
 わずかに降る天水を頼りに荒蕪の地を切り拓いて耕すことからイスラエルのカナン定着は始まった。ところが、それは同時に、すでに先住の諸民族が生活している中に侵入することだった。そこに軋轢が起こるのは当然である。ユダヤ伝承『士師記』でもカナン侵入の初期にはアラム人やモアブ人の王に支配されたことが記されている。
 エジプト帝国の覇権が広く行き渡っている時代ならば、その傘の下に庇護されることも期待できたであろうが、エジプトはアマルナ時代に対外関係をまったく無視したエジプト版モンロー主義を採ったため、前庭ともいうべきカナンの地域までも新興ヒッタイトの勢力が伸張してきていた。
 諸候国が新旧覇権のどちらに付こうかと右往左往する間隙を突いて、強盗殺戮を専らとするならず者集団が各地に跳梁跋扈する時代だったのだ。そんな危険地帯に追放されたイスラエル人たちが生き延びるには、彼ら自身もまた強盗殺戮の徒となるほかなかった。「川を越えてやってきた人々」という意味の「ハビル」「アピル」「アビル」「イビル」「イブリ」などとイスラエル人は呼ばれたのだが、要するに、「新手のならず者たち」と見なされたということである。
 このカナン定着時代にイスラエルを率いた軍事的宗教的指導者が「士師」(しし、和訓で「さばきつかさ」)と呼ばれている。英雄的な士師が現われイスラエルを勝利に導いても長くは続かず、すぐまた他民族の支配の下で奴隷として呻吟するという苦難が続いた。そして、イスラエル内部の部族対立も繰り返された。
 ユダヤ伝承ではあたかも士師の時代にイスラエルがすでに十二支族に分かれていたかのように書かれている。イスラエル十二支族とは、始祖アブラハムの孫である父祖ヤコブが神に「イスラエル」と名乗りなさいと言われたことから、ヤコブの息子一二人をそれぞれ族祖とすると一般には考えられているが、事はそれほど単純ではない。
 まず、ヤコブがラバンの長女レアによって得た息子は六人。

  @ルベン
  Aシメオン
  Bレビ
  Cユダ
  Dイッサカル
  Eゼブルン


 次に次女ラケルの下女ビルハが産んだヤコブの息子は二人である。

  Fダン
  Gナフタリ

 長女レアの下女ジルバがヤコブに産んだ息子たちは二人。

  Hガド
  Iアシェル

 次女ラケルが産んだのは二人。

  Jヨセフ
  Kベニヤミン

 つまり、ヤコブは四人の女から一二人の息子(と娘一人)を得たのだが、祭司を専門職としたというBレビ族はイスラエル十二支族には含まれない。さらに、Jヨセフも大活躍の伝承を有するにも拘わらず、十二支族の族祖とは見なされない。ヨセフがエジプトの祭司ポティ・フェラの娘アセテナに産ませた二人の息子

  Lエフライム
  Mマナセ

が族祖となっている。
 すなわち、イスラエル十二支族とは、BレビとJヨセフとを除いたヤコブ(イスラエル)の息子一〇人と孫二人を族祖とするのである。十二支族それぞれにはカナンに「割当地」があったとされているが、祭司を専門職としたレビ族は割当地をもたなかった。つまりレビ族は「その他大勢の雑多な人々」と異なる特別な存在だと見なされたのである。アテン一神教における祭司神官階級がエジプト王族から構成されて、特別な人々と見なされたことの名残であろう。
 名前そのものから考えると、アテン一神教の聖地アケトアテンでの王族=祭司階級は「ヤフウド」と呼ばれていたのであるから、「ユダ」(Yehuda)族こそがヤフウドの直系祭司族であると思われるが、エジプト帝国という経済基盤を喪った一神教徒たちは大規模な祭司階級を抱える余裕を持てなくなり、ごく少数の祭司専門職を各部族に配当して祭祀を司ることとしたのである。これがレビ族である。レビもユダも、下女からではなく正式の妻から産まれた息子すなわち正嫡子とされ、しかもレビが兄であるとなっているのは、カナンに定着する過程で「ヤフウド」の中のさらに選りすぐりの者たちが祭祀専門階級を形成したことを伝えているのである。
 後に統一王国が北王国イスラエルと南王国ユダに分かれたとき、十二支族の内の十支族が北王国に、二支族が南王国に属することになる。だが実際には、南王国が祭司職のレビ族を擁していた。南北両王国時代のユダヤ伝承は『烈王記』として纏められているが、「その他大勢の雑多な人々」からなる北王国ではしばしば一神教から離れてカナンの土着信仰であるバアル神への信仰に王族までもが染まったと繰り返し非難されている。一神教を堅持する南王国とバアル信仰へと堕落する北王国という対比は、『烈王記』を貫く基本テーマであると言ってよい。
 南王国ユダを構成するレビ族、ユダ族、ベニヤミン族がいずれもラバンの娘から産まれた正嫡子たる息子を族祖とするのに対し、その下女から産まれた庶出の四支族がすべて北王国に属するのも、「ヤフウド」を中核とする南王国が、「その他大勢の雑多な人々」からなる北王国を低く見ていたことの表われである。

●バアル信仰と海の民が敵となる
その一神教信仰ゆえにエジプトから強制国外追放を喰らったイスラエルはカナンの土着信仰であるバアル信仰を目の敵にして、北王国のバアル信仰への転換を信仰の堕落として口を極めて罵っている。だがむしろ、一神教こそがエジプト帝国の繁栄から生み出された古代世界の異端児であって、それまでの世界に例を見なかった宗教的な突然変異ともいうべき変種なのである。
 一方、バアル神はわが国の素戔嗚尊やインド神話におけるインドラ神にも比すべき、人類共通の普遍的な神格であり、雷霆・暴風・慈雨を司るという属性も共通する。バアルによる悪龍神ヤム・ナハル退治の物語は、わが出雲神話における素戔嗚尊の八岐大蛇退治の物語と同じく、バアル神話の重要な部分である。
 カナンからレバノン、シリアの各地にバアルのための神殿が数多く建立されていた。つまりイスラエルのカナン定着に先立つ遙か以前からバアル神はカナン・シリア・レバノン地域一帯にかけて広く信仰されていたのである。
 一九二八年に発見されたウガリット遺跡からは夥しい量の楔形文書が発見された。その解読が進むにつれ、紀前一六世紀から一三世紀にかけて繁栄を謳歌したにも拘わらず永く忘れられていた古代都市国家ウガリットの存在が明らかになってきた。ウガリットの町は小高い丘の上に建造されていたが、丘の頂上に建立されたのがバアル神殿とバアルの父ともされるダゴンの神殿だった。
 後にはバアルもダゴンもユダヤ教やそこから派生したキリスト教において禍々しい悪魔として忌み嫌われるが、一神教という特殊な色眼鏡を掛けて眺めたのでは、古代世界の本当の姿が歪められてしまう。
 ちなみに、古代都市国家ウガリットを滅亡させたのは紀前一二〇〇年ころレパント一帯(地中海東部沿岸地域)を荒らし回って多くの古代都市国家を灰燼に帰せしめた「海の民」の侵攻・破壊によるものとされている。その正確な年代は定かではないが、エジプト新王国第一九王朝第四代のファラオであるメルエンプタハ(紀前一二一二〜一二〇二)の時代には確かに存在し、第二〇王朝第二代ファラオのラムセス三世(紀前一一八二〜一一五一ころ)の治世八年目(紀前一一七四年ころ)には滅び去っていたとされるので、紀前一二〇〇年から数年の内に、長くても十数年の間に滅亡したものと考えられる。
 謎の民族集団「海の民」による侵攻破壊は、ヨーロッパ中世初期において英仏を征服、地中海に入ってシチリア王国を建て、東ローマ帝国を脅かしたノルマン人の猛威に勝るとも劣るまい。「海の民」は自ら記録を残さなかったうえ、彼らに関する記録もわずかしかない。その一つがメルエンプタハ五年(紀前一二〇八)に建てられた戦勝碑である。エジプトに対する侵攻に際し「海の民」はリビア人と連合していた。「陛下がリビアの国で成し遂げた勝利」と題された戦勝碑には「アカワシャ人、トゥルシャ人、ルッカ人、シルダーヌ人、シェケレシュ人、北方人が全ての国から押し寄せた」と記され、「北方人」(リビア人)と共に「海の民」を構成する主要集団として五民族が挙げられている。その五民族は以下のように比定されている。

  アカワシャ人=アカイア人
  トゥルシャ人=エトルリア人
  ルッカ人=小アジア南西部リュキア人
  シルダーヌ人=サルデニア人
  シェケレシュ人=シチリア人

 これによれば、サルディーニア島、シチリア島、イタリア半島、さらには小アジア沿岸地域、さらにはギリシアを含む地中海全域からの集団が「海の民」を構成していたことが分かる。
 彼らは突如として歴史に登場したのではなく、例えば、紀前一二八六年にヒッタイトとエジプトの間で戦われたカデシュの戦いでは「ルッカ人」や「シルダーヌ人」を両陣営とも傭兵部隊として傭っていたことが記録されている。また、ウガリット遺跡では多くの個人の墓が発掘されているが、その副葬品から判断すると、キプロス島やクレタ島、ミュケーナイなどエーゲ海周辺域からの出身者もウガリットには住んでいたと考えられる。
 つまり、ある時点まで平和裡に共存共住していた地中海諸島出身者たちがある時に突如として武装侵攻集団と化し襲撃してきたというのが実情だろう。
 戦勝碑にはファラオが敵兵六〇〇〇人を殺し捕虜九〇〇〇人を得たと記されているが、捕虜となった戦闘部隊を傭兵集団として活用することは古今に通じる帝国の狡知であり、カナン定着後のイスラエル部族連合にとって最大の敵となる「ペリシテ人」とは侵略戦争の終結後にエジプトの傭兵となってカナンに居座った海の民の一派であった。(つづく)