みょうがの旅    索引 

                    

 ペルシア諸王列伝『王書』に歌われたツラン
            (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)3月1日第355号)

●このところ『王書』(シヤー・ナーメ)を折に触れては読んでいる。わが『古事記』にも相当するペルシア諸王列伝叙事詩である。アラブ民族に征服されたペルシア民族の民族精神高揚を期してペルシア語で歌い上げたといわれるが、如何にせんイスラム教浸透後に成立した関係から、ペルシア本来の神話伝説が一神教に抵触しないように少しく歪められているとの評価がある。この六万句にも及ぶという長大な叙事詩の作者はフィルドウスィー(九三四~一〇二五ころ)で、ヘジラ暦第四〇〇年(一〇〇九・一〇一〇)の完成までに三十有余年の努力を要したという。
●連載の「突厥・ハザール興亡史論」のために、デルベント要塞を越えて対立したペルシア・アラブ側の史料について一応の理解を得ておかねばと考え、まず思いついたのが『王書』だった。確か買ってあったはずと混乱を極める書棚を探したが見つからない。それで新たに黒柳恒雄氏の東洋文庫『王書』と『ペルシアの神話』(泰流社)とを入手、さらに岡田恵美子氏による新訳『王書』(岩波文庫)も揃えた。
●『王書』におけるツラン、すなわちトゥーラーンは善なるイラン王国に敵対する悪の王国として、ゾロアスター教的善悪二元対立史観によって描かれている。神話時代第六代目の王として五〇〇年在位したファリドゥーン王に三人の王子があって、長男のサルムに「ルーム(小アジア)と西方のすべて」を、次男のトゥールにはトゥーラーン(トルキスタン)の地を与え、トルコ人とシナの支配者にした。三男のイーラジには勇者の砂漠とイランの国を与えたという(黒柳恒雄『ペルシアの神話』泰流社、一九八九年による。括弧内は黒柳氏の補注)。
 長兄サルムは三男イーラジが父王の王権と玉座を継いでイラン王となったのを公正を欠くとして恨みに思った。そこで、トゥーラーン王となった次弟トゥールと語らって父王に糾弾の使者を発たせる。父王から兄たちの不満を聞かされた末弟イーラジは自ら兄たちの許に赴いて、王権にも玉座にも何の未練もないことを告げる。だが、仁慈の義人である末弟の思いを理解しない次兄トールはますます怒りに駆られ、黄金の椅子で弟を殴りつけ短刀で首を切り落としてしまう。トゥーランの王トゥールは粗暴かつ野蛮な悪の権化と見なされている。
●さて、イーラジの仇を討つのは孫のマヌーチェフルの代になってからで、そのイラン軍と対戦するトゥールとサルムの連合軍は「オキサス川を渡り」「アラーンの国と海を背にして、戦場に陣取った」と歌われる。オキサス川とはオクサス川、すなわちアラル海に注ぐアム・ダリアである。アラブ名ではジェイフーン川と呼ばれたが、これがイランとトゥーラーンとを分かつ国境線であった。神話伝説の類いに歴史的事実を求めるのはどだい無理な話ではあるが、少なくとも一〇世紀ころのイラン人たちがオクサス川より向こうにトゥーラーン人の国があると考えていたことは言えよう。
 また、トゥールがトゥーラーンとともにシナをも支配したとされているのは、ササン朝滅亡後に王子ピールーズが唐に亡命して盛んに援軍を要請したことを考え併せると充分納得できる。 ツランはゾロアスター教聖典である『アヴェスター』「ヤスナ書」第四六章一二節にも「ツランびとフルヤーナの……世嗣や孫」と描かれている。