十二支族考 索引 

                      

 突厥・ハザール興亡史論 4 非定住放浪民イスラエル
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年3月15日第356号)


●非定住放浪民イスラエル
メルエンプタハ王の率いるエジプト軍がナイル下流域の西方から侵攻してきた海の民とリビアとの連合軍と戦った戦争を「ペルイレル( Perire )の戦い」というが、これがいわば本土防衛の戦争であったのに対して、エジプト帝国の覇権回復のためにシリア方面への対外遠征もメルエンプタハは行なった痕跡がある。
 一八九六年にテーベ西域のメルエンプタハ葬祭殿でフリンダース・ピートリー(一八五三〜一九四二)によって発見された「メルエンプタハ戦勝碑」(カイロ博物館目録三四〇二五)は碑文にイスラエルという言葉が歴史上初めて登場することから「イスラエル碑」と呼ばれる場合もあるが、適切な名称ではない。
 というのも、碑文全体はテヘヌー(リビア)に対する勝利とオン(ギリシア時代以降はヘリオポリスと改称)におけるリビア酋長メレウィに対する神々の神判(もちろん有罪)とを記述することに主眼がおかれているからだ。碑文そのもの趣旨から命名するとすれば、「テヘヌー碑」と呼ぶ方がむしろ相応しいが、本稿では「メルエンプタハ戦勝碑」と呼ぶことにする。
 確かに「イスラエル」という語が登場するが、碑文の最後の締め括り部分でエジプトによって征服されたシリア・カナン地域の状況が述べられている中に、ほんの一言触れられているにすぎない。こうした些細な部分にもユダヤ・キリスト教的偏見による事実の歪曲が及んでいるのは、嘆かわしいことだ。
 テーベ西域で発見のメルエンプタハ戦勝碑の結語部分は、諸訳を斟酌して分かりやすくすると、こうなる。

 敗れた諸王たちは平伏して「お慈悲を!」と言う。ひれ伏す九弓の中で頭を上げる者は一人もいない。テヘヌー(リビア)の国は荒廃し、ハッティ(ヒッタイト)の国は平和に立ち戻り、カナンは喘ぎ苦しむほどに略奪された。アシュケロンは占領された。ゲゼルの地は掠奪され、ヤノアムは無人となった。イスラエルは滅ぼされて、その種(子孫)は絶えた。フルはエジプトによって寡婦とされた。
 すべての国は統合され、平和に立ちもどった。不穏であった者のすべては、ラー神御自身のように日毎に命を更新するメルエンプタハにより鎮圧された。


 つまり、戦勝碑の主張するところに従えば、海の民とリビアの連合軍による下エジプト侵攻が撃破されたばかりか、逆にリビア本国まで征服され、さらにはヒッタイトに与して敵対行動を採っていたカナン・シリア方面の諸勢力も平定された、というのだ。
 エジプトに敵対する伝統的敵対国である九ヶ国の王たち(九弓と表現される)は今や平伏して慈悲を乞い、昂然と頭を上げて敵対的態度を示す者は一人もいない、と謳っているが、九弓が具体的にどの国を指すのか不明である。この「メルエンプタハ戦勝碑」の冒頭部分においても、「九弓を討ち滅ぼす力強い雄牛の武名は永遠に轟きわたるだろう」とメルエンプタハを称賛しているから、九弓に対する征討事業がファラオ称賛の常套句になっていたとも考えられる。
 したがって、以下に列挙されている地域・都市国家・民族に対する勝利も、実際の軍事遠征の成果であるのか、それともファラオ称賛のための単なる修辞であるのか、判断するのは難しい。先に「シリア方面への遠征の痕跡がある」と慎重を期して書いたのは、このためである。
 確かにエジプト王が建てた戦勝碑を歴史的史料と見なすことには危険が伴うのではあるが、何かしらの歴史的事実を反映していると考えることもできる。すなわち、エジプトに対しシリア・カナン地域が敵対的行動に奔ったことがあるのは歴史的事実であるから、戦勝碑に征討対象として挙げられても不思議ではない。
 いずれにせよ、エジプトの考古資料に「イスラエル」が登場するのはたった一ヶ所だけ、この「メルエンプタハ戦勝碑」だけなのである。貴重な歴史的価値のあることは誰しもが認めるところながら、その解釈をめぐっては発見者フリンダース・ピートリー以来、議論百出の観がある。
 いま私の手元にあるジェイムズ・B・プリチャード編『古代近東旧約聖書関連資料集』(プリンストン大学出版局、初版一九五〇、第三版一九六九年刊)の注釈では、次のように解説されている。

 この部分に登場する地域・都市・民族の名前の中で、唯一「イスラエル」だけが地域名を表わす限定詞ではなく民族名を表わす限定詞を伴って表記されているという事実に対しては、これまでに多くの研究が行なわれてきた。したがってわれわれは、「イスラエルの子ら」がパレスティナの地に、あるいはその近辺にいたことを推定してもよいが、しかしまだ定着した民族としてではないことを忘れてはならない。このことは、いわゆる「カナン征服」の年代に重大な関係をもつだろう。こうした議論は有効である。エジプト語における限定詞は当然ながら意味があるのであって、とりわけ同じ碑文の中で限定詞が使い分けられていることは、重要である。この戦勝碑においては、レブ(リビア)やテメ(リビアの一地域)、ハッティ(ヒッタイト)、アシュケロンなどには定着民族を表わす国名限定詞が付与されているのに対して、マジョイ(スーダン)やナウ、テクテンのような非定着集団には民族名限定詞が付与されている。
 このような議論は大いに結構だが、これで結論を下すというわけにはいかない。というのも、エジプト後期王朝の書記たちが不注意から間違いを犯すことは周知のことであり、さらにこの戦勝碑の碑文そのものに間違いがいくつもあるからである。
 碑文に「イスラエルの種、すなわち子孫は絶えた」と書かれているのは、この時代に特有の権力誇示の誇張表現である。(同書三七八頁)


 学者特有の慎重な言い回しを何とか判読してみると、問題の「イスラエルの子ら」がまだ定着以前の状態にあること、「イスラエルの子孫は絶えた」とあるのも事実ではなく誇張表現であること、を指摘していると言えよう。
 イスラエルと同じく民族限定詞を付与され非定着集団と見なされた三民族は先に引用した結語部分には登場していないが、その直前の節に「マジョイは体を伸ばして眠り、ナウとテクテンは平原の好きなところにいる」と記されている。注釈で、「マジョイ」には警察隊として編成されたスーダン人、「ナウ」と「テクテン」は辺境前線の警備兵という説明がある。おそらくは、上エジプトよりさらに奥地のヌビアやスーダンからの被征服民族を帝国内部組織に組み入れて警察や国境警備などの任務に就かせたのだろう。いずれも、その職掌から一ヶ所に定住することができない人々であった。イスラエルはこうしたエジプト帝国に組みこまれた異民族集団と同じく非定住民族集団と見なされたのである。
 しかし、イスラエルはエジプト帝国の組織の一部である警察隊や国境警備兵として挙げられているのではなく、征服された敵対的異民族を列挙した中に登場している。これは何を意味するのか。
 以前に、アテン一神教徒たちはエジプトとヒッタイトの覇権対峙の最前線であるカナンの地に屯田兵として追放されたのではないか、と書いたことがある。その彼らが今やエジプトに敵対する勢力の一つとして数えられているのである。
 エジプトからの追放がアイ王(在位紀前一三三一〜一三二六)の下で行なわれたのだとすると、メルエンプタハ王五年(紀前一二〇八)までほぼ一二〇年が経過している。これだけの年月が経過してもなお定着できなかったということは、その運命がいかに苛酷であったかを物語っている。エジプトの覇権がカナンの地に行き渡らず、その庇護を期待できないとなれば、独自に生きていくほかはない。定着できる根拠地をもたないで生活するとは、自らを養う農耕地をもたない浮浪漂白の生活をすることを意味する。すなわちそれは、持てる者からの強盗略奪により生きることである。イスラエルがこの時代に跳梁跋扈した強盗略奪集団のアピルやイビルの一党と見なされたのも無理はない。

●海の民の大規模侵攻第二波
 さて、メルエンプタハ王五年(紀前一二〇八)に建てられた戦勝碑の一つ「大カルナック碑」に記されたものが海の民の侵攻を伝えるもっとも初期の記録であるが、それからほぼ二〇年後のエジプト第二〇王朝二代目ラムセス三世(在位紀前一一八二〜一一五一)の治世第八年(紀前一一七四)にも、海の民による大がかりな侵攻のあったことが記録されている。
 テーベにあるラムセス三世の葬祭殿「メディネト・ハブ」の碑文については一九二四年以来シカゴ大学が研究を行なっている。海の民に関する記録は最初の調査報告書『メディネト・ハブ碑文調査第一集 ─ ラムセス三世初期歴史的記録』(一九三〇)の中に収録されているが、海の民に関する記述の冒頭の部分はこう始まっている。

 (ラムセス三世)陛下の第八年……、異邦人どもは彼らの島々において陰謀を凝らした。まったく突如として諸国は騒擾のうちに地上から抹殺され壊滅させられた。ハッティ(ヒッタイト)やコデ(アナトリア半島南東部にあったキズワトナ)、カルケミシュ、アルザワ(アナトリア半島南西部)からアラシア(キプロス島)にいたるまで、彼らの武器を前にして立ちはだかる国はどこにもなかった。一瞬にして息の根を止められた。アムルの地(シリア北部)にあった駐屯地、彼らはそこの人々を殲滅し、アムルの国はさながら存在しなかったかのように廃墟と化した。彼らは怒濤のようにエジプトまで攻め寄せたが、その前に猛火が待ち受けていた。彼らはペリシェト人、チェケル人、シェケレシュ人、デニエン人、ウェシェシュ人の諸国が集まり同盟軍を結成していた。

 上に挙げられた海の民同盟軍を構成する諸民族の中で、シェケレシュ人を除いてはメルエンプタハ戦勝碑に登場していない新顔である。
 このうちで、ペリシェト人はユダヤ伝承に出てくる敵対勢力「ペリシテ人」と同じである。今日でもカナンの地域を「パレスティナ」と呼ぶのは、このペリシェト人の土地という意味に由来している。ペリシェト人については、ギリシアのミケーネ文明を担った人々との関連を説く学者もあるが、多くの問題がある。(つづく)