十二支族考 索引 

                      

 イスラエル十二支族考 5 番外篇 : 表題訂正とお詫び
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年4月1日第357号)


★表題訂正とお詫び
 アシュケナジーと呼ばれるユダヤ人の一派はもとウクライナやハンガリー、ポーランド、ロシア、ドイツなどの、いわゆる東欧の国々に住んでいた。彼らはナチスによる迫害を受けて故地を追われ世界中に離散したと言われるが、米国に渡って最終的に難を逃れた者が少なくないとされている。
 われわれがユダヤ人だと知っている著名人の中ではアシュケナジーが圧倒的に多い。ジークムント・フロイトもカール・マルクスもフォン・ノイマンもアインシュタインも、ハインリヒ・ハイネも皆アシュケナジーである。
 ユダヤ人のもう一つの大きな一派がスファラディーで、こちらはイベリア半島のスペインとポルトガルすなわちセファラデの地から一五世紀末に追放された人々である。イベリア半島まで席巻したイスラム勢力を追いはらって領土回復(レコンキスタ)を成し遂げたのはスペインのフェルナンド王とイザベラ女王だが、ローマ教皇からカトリック両王という称号を得た二人はイベリア半島の宗教的な統一も達成したいと考え、ユダヤ人に対して改宗かさもなくば追放かという改宗追放令を一四九二年に布告した。国外に脱出するユダヤ人がほとんどだったが、偽装的に改宗するユダヤ人も多く彼らはマラーノと呼ばれた。そのマラーノたちも異端審問の猛威に晒され国外に脱出することを余儀なくされた。彼らはイベリア半島から出てイタリアやオスマン・トルコ帝国領など地中海世界の全域に離散したとされる。また、オランダに落ち延び、さらにドイツやポーランド、ロシアにまで逃げた者もある。
 スファラディー系ユダヤ人で日本人が知る著名人は意外に少ない。ドイツと米国両方で金融界を牛耳ったワールブルク(ウォーバーグ)家は間違いなくイタリア系スファラディーであるが、もっとも有名なフランクフルト出身のロスチャイルド家は公刊された資料ではどちらに属するのか書かれていない。ピーター・セラーズやニール・セダカ、あるいはジャック・デリダなどの名前を持ち出せば、多少は知っている人もあるかもしれない。
 元来ユダヤ人は神から与えられたと自ら主張するカナンの地に住んでいたが、一二部族(正確には一三部族)に分かれていたユダヤ人(イスラエルの子ら=イスラエル)を紀前一〇二一年ころにサウルがまとめイスラエル王国を建てた。ダビデとソロモンの二代の治世を経て王国の基礎は固まったかに見えたが、建国後ほぼ一〇〇年経った紀前九二二年に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂する。北王国には一〇部族が、南王国に三部族が分かれて住むようになる。
 北のイスラエル王国は南北分裂から二〇〇年経ったころ、アッシリア帝国による侵攻を受け首都サマリアが陥落、王族を始め各部族の指導者たちが捕虜とされアッシリアに連行された。捕囚となった人々の数はサルゴン二世自身の記録によると二万七二九〇人に登るという。こうして北のイスラエル王国は紀前七二二年に亡びた。
 ここに、ユダヤ人の離散が始まったのである。
 南のユダ王国も新バビロニア王国の二代目ネブガドネザル二世(在位紀前六〇四〜五六二)による侵攻を受け、紀前五九七年と五八六年の二度にわたり王族以下の指導者たちと多くの住民がバビロンへと強制連行された。
『エレミア書』によると紀前五九七年の第一次バビロン捕囚では三〇二三人が捕虜として連れ去られ、紀前五八六年の第二次捕囚で一万八三二人が連行されたという。合計で一万三八五五人となる。
 アッシリア捕囚と両次バビロン捕囚による人数を単純に合計すると四万人を優に超える人口がカナンの地を離れ離散したことになる。これは相当な数である。
 ところで、新バビロニアにより連行されたユダ王国の人々は、アッシリアの捕囚となって先に来ていたはずの北王国イスラエルの末裔たちのその後がどうなったか探したが、遂に見つけることができなかった。そこで、南王国のユダ族とベニヤミン族、そして祭司階級レヴィ族はヤハウェ信仰を捨てて異民族に吸収されてしまった北王国の人々を「失われた十支族」と呼んで軽蔑するようになる。
 バビロンで捕囚となっていた南王国人は紀前五三八年、新バビロニアを倒したアケメネス朝ペルシアのキュロス二世によって解放されカナンへの帰還も許されることになる。エルサレムに最初に帰還した者の数は四万二四六二人と言われるが、第一次捕囚より数えてほぼ六〇年が経ち、第二次捕囚からでも五〇年近くが過ぎており、いまだ見ぬカナンより住み慣れたバビロンに留まることを選択した者も多かったという。
 カナンに帰還したユダヤ人たちは、新バビロニアのネブガドネザル二世により破壊されたエルサレム神殿の再建に取りかかり紀前五一五年に完成する(第二神殿)。エズラの指導の下で、紀前四五八年には第二次の集団帰還が行なわれた。
 こうして北王国は滅び去ったが、南王国は捕囚から帰還して信仰と自治の自由を回復した。この時期に族外結婚を禁じ民族としての結束を図ったのは、北王国の滅亡と十支族の消滅を殷鑑としたからであろう。また、ネヘミアとエズラによってユダヤ教の基礎が固められたとされている。
 だが、政治的独立すなわちユダヤ人自身の王国を樹立することはできなかった。初めペルシアの支配に服したが、その後アレクサンダー大王による征服を経てプトレマイオス朝、セレウコス朝の支配下に長く置かれた。その支配を脱しユダヤ人自身の手でハスモン朝の神権政治を建てた(紀前一四三)のも束の間、内紛を繰り返しセレウコス朝を倒した(紀前六三年)ローマの属州に繰り入れられる。
 ユダヤの支配層はローマに迎合するも民衆の不満が爆発し、西紀六六年に叛乱が勃発する。七〇年にローマ軍はエルサレムを兵糧攻めにして陥落させ神殿も破壊する。その後も一一五年のキトス戦争や一三二年のバル・コクバの乱などローマに対する叛乱は続くが、全ユダヤ人からメシアとして認められたバル・コクバがエルサレムで大公として二年半統治したイスラエル公国が一三五年にローマに征服されると、以後ユダヤ人は政治的独立を失い、先のイスラエル国家の建国まで二〇〇〇年近くもの間、離散の民となってローマ帝国領内はおろか世界の果てまで散らばることを余儀なくされたのだった。
 ところが、そのユダヤ人が二〇〇〇年ぶりに建国したイスラエルが、いま国家存亡の危機に瀕している。
 やがて襲い来るであろう激動によりユダヤ人がイスラエルという現在の国家を失って再び離散の運命を強いられるかもしれない。そうなると、世界の情勢にも多大の影響を及ぼすことになるのは必至である。
 すでに世界中の富を支配しているといわれる国際ユダヤ金融資本家の内部で内ゲバないし共食いが始まっているとも聞く。リーマンショックでは一人勝ちと囁かれたゴールドマンサックスがギリシア国債で下手を打ってユーロ圏の各国に尻拭いさせようとしているのがギリシア経済危機あるいはユーロ危機の語られざる実態であるが、それはあまりにも非道すぎるとユダヤ資本家内部でも問題とされているという。
 このような状況に際会すると、永年抱き続けてきた疑問が改めて湧き上がってくる。
 世界のユダヤ人の大部分を占めているアシュケナジーとは何者か? 現在のイスラエルで同胞のスファラディーまでも抑え要職を独占しているという東欧出のアシュケナジーはイスラエル第十三支族とも言われるが、彼らは本当にユダヤ人なのであるか? そもそもユダヤ人とは何者なのか? 日本人がユダヤ人と祖先を同じくするというユダヤ同祖論も根強い支持者がユダヤ人の中にもわが国にも時に現れるが、果たして本当なのか? 
 これらの疑問を自分なりに究明するため「ユダヤ十二支族」の成立を確認して「失われたイスラエル十支族」に軽く触れ、ユダヤ人アシュケナジーの揺籃の地ともいわれるハザール帝国に焦点を絞って、その成立とユダヤ教への改宗、そしてその滅亡までの歴史を再検討する必要を感じ、本稿を始めることにしたのであった。
 とりわけ、ハザール帝国の支配層は東西に分裂した突厥帝国の西突厥の流れを汲むとの説もあり、もしもそうであるならば、もともと天神を戴き呪師シャーマンを通じて神霊との深い交流を欠かさなかったはずのツラン民族がハザール帝国においてユダヤ一神教に改宗するという前代未聞、空前絶後の一大珍事が起こったことになる。
 ツラン民族に大いなる関心を抱く私としては信じがたい事態であり、どうにも気になって仕方がなく、以前から「ハザール問題」には注意を怠らないようにして、資料などもぼちぼち集めてはいたので、この際に着手しようと考えたのである。
 ところが、欲張りすぎたというか、見通しが甘かったというか、ちょっとだけ「失われたイスラエル十支族」に触れておこうというつもりが、とんだ深みに嵌って、このままでは突厥にもハザールにも容易には辿り着けそうにない。「突厥・ハザール興亡史論」という表題を掲げながら実は古代ユダヤ史を辿るという為体はさながら支那人の「羊頭を掲げて狗肉を売る」という傲岸無礼にも均しく、聊か恥じるものがある。そこで今回より連載の通題をとりあえず「イスラエル十二支族考」と改め、問題を少しずつ解決していくことにした。筆者の身勝手な表題変更をお許しいただきたい。また次回からは引きつづいて、イスラエル十二支族成立の経緯を考えるため、海の民の跳梁を見ていくことにする。(つづく)