十二支族考 索引 

                      

 イスラエル十二支族考 6 海の民、帝国を滅ぼす
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年4月15日第358号)


●ヒッタイト王の警告も空しく……
海の民の侵攻を伝えるもっとも早い記録がメルエンプタハ五年(紀前一二〇八)の「大カルナック碑」であり、第二の記録がメディネト・ハブ葬祭殿壁面碑文に記された大侵攻で、それはラムセス三世八年(紀前一一七四)に起こったと書かれている。
 この二つの記録の間には三〇年前後(在位年に諸説があるため)の時の経過がある。この間のある時期に、年代は特定されていないが、ヒッタイト王シュッピルリウマ二世(在位紀前一二一五~一一九〇ころ)からウガリット王アンムラピ(在位一一九一~八二)に宛てた書簡が残されている。それは「船上で生活するShikalayuに警戒せよ」と警告する内容であった。
 警戒すべき船上生活者Shikalayuとは、メルエンプタハ戦勝碑とラムセス三世葬祭殿碑文の両方に登場している海の民の一隊の「シェケレシュ人」、つまりシチリア島出身者を指すと考えられている。
 海の民の実体については現在なお謎とされているが、その多くはイタリア半島やペロポネソス半島そして地中海全域の島々から出発して、アナトリア半島や東部沿岸の文明先進地帯へ突如襲いかかってきたのである。
 火山の大爆発か地震か大干魃なのか、いずれにせよ彼らを故郷から追出した自然の大災害があったに相違ない。
 海の民をシュッピルリウマの書簡では「船上生活者」と表現している。彼らの動きを見ると、故郷を拠点に地中海を渡って定期的に襲撃略奪を繰り返すというより、故郷を捨てて東部地域を乗っ取り住みつこうとしていたように思われる。つまり、文明史における主役交代が起こっていたのである。
 メソポタミア平原を舞台に繰広げられた文明の興亡を長編ドラマに見立てれば、第一幕の主役はシュメル文明、第二幕はアッカドとバビロニア、そしてアッシリアという三者の競演と言えるかも知れない。その第三幕の主役がヒッタイトとミタンニだったが、終盤でヒッタイトがミタンニを降して属国としたのも束の間、突如侵攻してきたまったく新しい勢力の海の民によって警告を発したヒッタイトも警告を受けたウガリットも滅ぼされる。せっかくの警告も海の民の怒濤の勢いの前には、空しかったのである。
 ラムセス三世八年の葬祭殿碑文に「ハッティやコデ、カルケミシュ、アルザワからアラシアにいたるまで、彼らの武器を前にして立ちはだかる国はどこにもなかった。一瞬にして息の根を止められた」と書かれた通りである。そこにウガリットは名前すら挙げられていない。
 古代文明世界に「海洋軍事勢力」という新たな装いを纏い殴り込みをかけた海の民は、およそ二〇〇〇年後の歴史に登場する北欧出身の海洋軍事勢力のヴァイキングと同じく、襲撃略奪して荒らしまわった後には可能ならばその襲撃地に留まり支配者として君臨しようとした。
 文字と都市の文明を持っていた先進地域から見れば、海の民は無学文盲の蛮族と恐れられたことだろう。だが、彼らも定住すれば、自ら滅ぼした先行の文明の遺産を否応なく身に着けることになる。
 こうしてカナンの海岸部に定住した海の民の一派が「ペリシェト人」であった。イスラエル人は「ペリシテ人」Philistîmと呼んだが、ペリシテ人との戦いがイスラエルをして民族としての纏まりを形成させたのである。
 今日でも欧州の連中は無学無趣味の人間を「ペリシテ人」と呼んで莫迦にするそうだが、ペリシテ人を敵として戦ったイスラエルの子ら=ユダヤ人の敵意と偏見に毒されたもので、むしろペリシテ人こそ遺伝的にも文化的にも自らの直接の祖先であることを忘れている。
 エジプトの傭兵としてカナン地域に定住したペリシテ人と、エジプトから追放されたアテン一神教徒イスラエルとの抗争は、中東文明全体の流れからすると、第四幕の幕開けに挿入された一小話に止まる程度のものであるが、それを検討する前に、海の民が滅亡させたのではあったが、先行第三幕における主役のヒッタイトおよびミタンニに関して、その隆盛の基となった鉄と馬の問題に少し触れておこう。鉄と馬の中東世界への登場は、本稿でやがて論じることになる突厥やハザールにも深く関わる文明史的な重大事件だからである。

●鉄と馬の登場とフルリ人
 現在のトルコが所在するアナトリア半島のど真ん中、建国伝説に歌われるクズルウルマック(赤い河)のほとりに誕生した新興のヒッタイトが、鉄器を武器に青銅器文明の下にあった先進地域メソポタミアにいわば殴り込みをかけたのは紀前一七世紀の末であった。ヒッタイトは瞬く間にメソポタミアを席捲して、紀元前一六世紀の初めのころ(一説には紀前一五九五年ともいう)に古バビロニア王国(紀前一八三〇~一五三〇ころ)を滅ぼした……。
 となれば、話は簡単なのだが、往々にして事はそれほど単純ではない。
 問題は鉄とヒッタイトの関係である。ヒッタイトの首都ハットゥシャに同定されているボガズキョイ遺跡から出土したヒッタイト文書の中に、粘土塊に楔形文字で記された「アニッタ文書」Anitta Textと呼ばれるものが複数個ある。ヒッタイト初代の王ピトハナPitḫana(紀前一八世紀~一七世ころ)の息子で第二代王となったアニッタの伝説的事跡を記録したもので、印欧語の全体でもヒッタイト語でも、現在のところ最古の資料である。
 その記録によると、アニッタは父王がアッシリアの地に建設した首都ネサNešaを拠点として次々に周辺諸都市を征服していったようだ。征服された都市国家としてウラマ、ハルキウナ、テネンダ、ハットゥシャ、サラティワラ、プルシャンダなどの名前が挙げられている。
 注目すべきは、最後のプルシャンダPurušḫandaの王が「ḫengur」として鉄製の王冠と王錫とを献上した、と書かれている点である。文脈からすると、「ḫengur」とは降伏貢納品とでも解釈できるが、ここにわざわざ鉄製の王冠と鉄製の王錫を挙げていることからして、ヒッタイトが鉄の技術を得たのはプルシャンダ国からかもしれないという可能性が出てくる。
 では、そのプルシャンダとはどこにあったのかが知りたくなるが、残念なことに、はっきりしていない。ただ、「その王を内閣で我の右に座らせるつもりだ」と書かれているから、被征服都市国家の指導者層をヒッタイトの国家経営に登用することは行なわれたのであろう。
 一説によれば、ハットゥシャと同じく、アナトリア先住民族のハッティ族の町ではないかとも言われている。
 事実、ヒッタイト帝国は多民族国家であった。ヒッタイトという国家名称はハッティ人の国という意味であるが、ハッティ族とは征服された民族の一つである。後に首都となるハットゥシャも征服された都市としてアニッタ文書に挙げられている。
 ボガズキョイ出土の楔形文書に使用された言語は先行文明語のシュメル語やアッカド語、自らのヒッタイト語、近接語のルウィ語とパラ語、また先住民族言語としてのハッティ語とフルリ語など八ヶ国語に及ぶという。
 アニッタの父ピトハナはクッシャラKuššaraの王と呼ばれているから、最初の征服都市はクッシャラだったのかも知れない。クッシャラを拠点にして周囲を征服、次にはネサを陥落させて首都とした。その息子アニッタはネサを拠点に周辺諸都市を次々に征服していった。ただし、この二人の王はヒッタイトの王名表には登場しない。古王国初代王ラバルナ(在位紀前一六八〇~五〇)より前の伝説上の王で、ボガズキョイ遺跡から出土した粘土板文書が解読されて初めてその存在が明らかになった。
 ヒッタイト帝国はアナトリア半島からメソポタミア西北部にかけておよそ五〇〇年にわたって支配を及ぼしたが、その東には同じく多民族国家ミタンニが版図を広げていた。ミタンニは通常フルリ人の国として知られる。だが、支配王族は明らかに印欧語族系の名前をもつ。古代インドでクシャトリアと呼ばれた王族・戦士階級がミタンニでも支配層をなしていたのだ。
 契約や条約に際して引き合いに出される神々の名前も、インドラやミトラ、ヴァルナ、ナーサティヤなどインドのヴェーダ聖典に登場する神々の名前と同じである。
 一方、一般大衆のフルリ人はフルリ語を使用していたが、フルリ語は屈折(動詞活用や格変化)しない膠着語として系統不明とされている。
 動詞も名詞も変化するのが当然だと考える屈折語(を話す連中)から見れば、膠着語はいずれも「系統不明」として片づける傾向があるのだが、近隣に膠着語を探せば、時代は隔たるものの、すぐ近くに古代シュメル文明を築いたシュメル語がある。そして、ザグロス山脈を越えたイラン高原の遙かな彼方には、膠着語こそ当然とする遊牧騎馬民族のツラン民族が馬に乗って草原を駆けめぐっている。
 馬といえば、ヒッタイト語で記され「調教読本」とでも名づけるべき紀元前一四世紀ころに筆写された文書がある。四枚の粘土板に記された文書は全部で一〇八〇行に登り、二一四日間に及ぶヒッタイト軍用馬調教の詳細を記したものだ。「調教師キックリ曰く……」と始まる同一形式で残されているが、この調教師キックリはミタンニ王国で活躍したフルリ人だったと考えられている。その卓越した軍馬調教法がミタンニを経てヒッタイトに伝わったのである。

●二輪軽戦車の発明
 軍馬といっても騎乗するのではなく、戦車を牽く動力として利用したもの。馬牽引戦車チャリオットの技術は紀前二〇〇〇年ころユーラシア大陸を東西に結ぶ大動脈、草原の道の西部地域で始まった。カスピ海の東北部にあたり、カザフスタン北部とウラル山脈の南部から東へ向けてシベリアまで拡がったアンドロノヴォ文化(紀前二三〇〇~一〇〇〇ころ)においてである。その主要遺跡の一つであるシンタシュ遺跡(ロシア連邦チェリャビンスク州)で発掘された貴人墓から二輪戦車と馬が発掘された。シンタシュ遺跡の年代は紀前一七世紀から一六世紀とされる。その北方に位置するクリヴォエ湖からも二輪戦車と馬の骨が発掘されたが、馬骨の年代測定では約紀前二〇二六年という数値が出た。
 つまり、中東地域に二輪戦車が登場する遙か以前に、ユーラシア北部草原地帯で馬牽二輪戦車の使用が広まっていたのである。
 ところで、この二輪戦車を発明した民族は印欧語族インド・ゲルマン民族の祖先たちと大方の学者が考えている。反対する者もないではないが、少数に止まるようだ。
 馬牽二輪戦車を中東世界に導入したのがフルリ人である。ヒッタイトもミタンニもこのフルリ人を取りこむことで戦闘に戦車を利用するようになり、軍事的に強勢をなす一因となった。
 具体的には、馬に牽かせる軽戦車という新兵器、すなわち、六本輻をもつ車輪二つの上に戦士が乗る二輪軽戦車である。この軽戦車の機動性によって軍隊の移動時間が画期的に短縮され、戦闘を有利に進めることができたのである。
 先にヒッタイトが鉄を得たのはプルシャンダからかも知れないと述べたが、そのプルシャンダの正体がアナトリア半島先住民のハッティ人の都市であるとすれば、ヒッタイトは鉄と二輪戦車という二大新兵器を先住民族から得たことになる。
 余談ながら、支那では鉄は正字で鐵と書くが、異体字には「銕」という字もあることを見ると、鉄を蛮族の金属だとする観念があったものと思われる。そうすると、突厥(とっけつ)や契骨(キルギス)の祖先たちの産鉄族が浮かび上がってくる。
 東西の文明圏で鉄文化がそれぞれの文明の主人ではなく先住民族あるいは周辺蛮族から伝来したものだとすれば、誕生したのはその中間の文明圏であると考えるほかない。すなわち、ツラン文明圏である。
 光り輝く黄金色の青銅[鋳造したての時には青銅は金色に輝く]に比べて、鉄は黒っぽい鈍色をしていていかにも地味である。和語でも「こがね」に対して「くろがね」という。宜なる哉。
 いずれにしても、メソポタミア文明先進地域に侵入してきたヒッタイトとミタンニの事跡を検証する限りでは、インドゲルマン民族が鉄と二輪戦車という新兵器によって敵を圧倒しながら支配を樹立した、という単純な図式には収まらないのである。その新兵器は彼らが文明先進地域にやってきた後に、先住民族のハッティ人やフルリ人から修得したことになからだ。
 優秀な戦士である聖なる民族が先進の武器を手にして劣等民族を征服していったというアーリア民族征服説は、インド及び中東の植民地的支配を円滑ならしめるためロンドンでデッチ上げられた学問的謀略である。そろそろこの愚かな迷妄から醒めて、一つひとつの事実に基づいて立論を積み重ねていく地道な作業から導かれる自然な考えに戻らなければならない。
 そこで私が注目したいのは、フルリ人の言語が膠着語であり、周辺民族の言語と異なるために系統不明とされてきた点である。さらには、フルリ人がコーカサス山脈の南の地域を源郷とするという説だ。
 もしもフルリ人がコーカサス山脈の南にもともと住んでいたのであれば、山脈を越えた北部の草原地帯で数百年前から広まっていた二輪戦車をメソポタミアに伝えた伝搬者であると考えることは自然である。
 あるいは、フルリ人そのものがアンドロノヴォ文化を担った人々の一派で、コーカサス山脈を超えメソポタミアの北部地域に移住してきた可能性もある。通説においては二輪戦車を歴史上初めて使ったアンドロノヴォ文化の担い手はインドゲルマン民族だと考えられているが、決定的な証拠があった上での主張ではない。
 すると、少なくともアンドロノヴォ文化の担い手の一部はインドゲルマン民族ではなく、膠着語を話すフルリ人の祖先だったとも考えられる。かつてアンドロノヴォ文化の広まった地域に後に住んだ者の中には、膠着語を話すツラン系の諸民族が多く混じっていたことを勘案すると、ツラン民族が紀前二〇〇〇年ころから同地域に住んでいたとしても不思議ではないのだ。
 もちろん、自然の猛威に晒されると、東へあるいは南へ文明先進地域の富に吸い寄せられるようにして侵入・移住を敢行する一派もあったことだろう。また、アンドロノヴォ文化の拡がった地域にずっと住み続けた者もいたかもしれない。
 次にこの地域の支配者として歴史に登場するのは遊牧騎馬民族スキタイ族である。およそ紀前八〇〇年ころから紀前三〇〇年、あるいは一説によれば紀前一〇〇年ころまでの時代に相当する。ギリシア人がスキタイ人と呼んだのでそれが今日まで使われているが、この遊牧民自身は自ら「スコロトイ」(弓矢の人)と称したとヘロドトスは伝える。スキタイ語そのものが残っていないので、言語系統は不明である。スキタイ人をインドゲルマン系とする説をしばしば見かけるが、これまた証拠のない単なる憶説なので、信じてはいけない。
 このスキタイ人たちはすでに、戦闘用に馬に牽かせる二輪戦車を捨て騎乗して弓を射る騎射戦法を採用していた。すなわち、純然たる遊牧騎馬民族の戦闘スタイルである。この戦法も瞬く間に東西に拡がっていくことになる。(つづく)