みょうがの旅    索引 

                      

  母の祈りと男の使命 
   (世界戦略情報「みち」平成9年(2657)8月1日第35号) 

●東京に母親を残して九州に転勤することになった大学時代の友人から、母の相談相手になってくれと頼まれた藤原源太郎が、友人の母に会って話を聞き相談に乗った。その礼状を藤原源太郎は私に見せてくれた。藤原の母親宛に八〇歳のお祝いと共に送られた手紙にはこう書かれていた(原文のママ、名前の一部のみ改変)。

 八十歳おめでとう。藤原源太郎様に心の苦しみたすけて頂ました佐藤高行の母です。今度せがれ九州にてんきしました。心細い時やかなしい時に心のすがりにと思って居ります。大きな岩のよう又あたゝかなやさしさにうれしいです。くれぐれもおからだ大切に。大学時代(友達)高行兄ちやんの母より、佐藤壽美子

 突然の心臓発作に襲われ、それが落ち着いた後の藤原宛の別の手紙にはこう書いてある。

 前略、ありがたうございました。私がいくじなし者なのでうろたえ約二時間も話を聞いて下され、心がくうどうになってしまった。私をあるいて歸れるようにして下されありがたうございました。よわい自分わきらいです。高行兄ちゃんもあわゞたしくはしりまわつて九州に住みはじめた様子、心配して夜おそく電話が掛かってきます。おばさんわとつぜんしんぞうが心電図におかしくうつりとんぷくを先生から頂いたのです。シヨツクでした藤原様にたのんでとさけびました。其後もおちついて一度もくすりわのんでません。高兄ちやんが、歸てくるまで生きろよと言て出發しました。重い石が心に入たような思です。
 ……藤原様のお母さん毎日折にふれ心配したりおこったりずーつと心のおくで思いつゞけてますよ。母とわそうゆうものです。ありがたうございました。

●この手紙を読んだとき、私は保田與重郎の『日本の橋』に、ある橋の精銅の擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた銘文が引用されていたのをとっさに思い出した。保田與重郎が「本邦金石文中でも名文の第一と語りたいほどに日頃愛唱に耐へない」と絶賛するその銘文は、簡潔にして短い。

 てんしょう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ぢんほりおきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためともみざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人は、念仏申給へや、卅三年のくやう也

 天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原攻めの陣に十八歳、というから今の十六、七歳で従って戦死した堀尾金助という少年の三十三回忌の供養のために、その母が幽明境を別にして、二目と見えなくなった悲しさのあまりに、この橋を架けるという旨を誌したものである。橋は愛知県熱田市を流れる精進川(しょうじんがわ)にかつて架かっていた裁断橋(さいだんばし)だという。
 保田與重郎はこう書いている。

 三十三年を経てなほも切々尽きない思ひを淡く語つてなほさらさびしい、かかる至醇(しじゅん)と直截にあふれた文章は、……本有のものにのみみちてゐる。ははの身には落涙ともなり、と読み下してくるとき、我ら若年無頼のものさへ人間の孝心の発するところを察知し、古の聖人の永劫の感傷の美しさを了解し得るやうで、さらに昔の吾子の俤をうかべ「即身成仏し給へ」とつづけ、それが思至に激して「逸岩世俊と念仏申し給へや」と、「このかきつけを見る後の世の又後の世の人々」にまで、しかも果敢無(はかな)いゆきずり往来の人々に呼びかけた親心を思ふとき、その情愛の自然さが私らの肺腑に徹して耐へがたいものがある。逸岩世俊禅定門といふのは金助の戒名である。

 息子を思う母の気持ちは、四〇〇年の歳月を隔てて見事なまでに同じく一途である。「母とわそうゆうものです」という母の祈りに育まれた男には、母を守り母が住む国を守る使命がある。敗戦の日を迎えて、そう思った。