みょうがの旅    索引 

                      

  正力松太郎の「マイクロ波通信網構想」 
               (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)5月15日第360号) 

●そもそもの始まりは、正力松太郎が今日の孫正義に象徴されるような「メディア王路線」を戦後間もない時期にいち早く突っ走ろうとしたことにある。その具体化案が「マイクロ波通信網」の建設と、それを利用した総合通信事業の開拓であった。
 音声や映像、文字などの情報を大量に高品質で伝送することができるこの「マイクロ波通信網」を張りめぐらせば、テレビやラジオなどのマス・メディアを始めとして、軍事・民生両用のファクシミリ通信や電話、警察無線、列車通信、自動車通信などの多重通信サービスが可能となる。正力は通信網を日本のみならず東アジア全域に建設しアジア全域の通信事業を牛耳ろうという構想を抱いたのだ。すなわちそれは、現在と将来のあらゆるメディアを手中に収めて「アジアのメディア王」たらんとする野望であった。
●明治一八年に富山県射水郡枇杷首村(現射水市)の土建業者の次男として生まれた松太郎は四高から東大に進み、高等文官試験に合格し警視庁に入庁、郷里の米騒動を鎮圧するなど功を重ね順調に出世して警務部刑事課長を経て大正一二年一〇月に警務部長に就いたとき虎ノ門事件が起こって懲戒免官となる。
 摂政宮御婚礼により恩赦され、翌大正一三年に発行部数五万五〇〇〇部の讀賣新聞を買収する。正力は創意工夫による新機軸を次々に打ち出し三〇年後の昭和二九年頃には、ほぼ四〇倍の二〇〇万部以上の発行部数にまで伸ばすことになる。昭和一九年には貴族院議員に勅撰され政治家としても出発した。敗戦後GHQによりA級戦犯指定を受け巣鴨刑務所に収監、昭和二二年九月一日に不起訴となり釈放されるも、同月一〇日に公職追放の処分を受ける。
 公職追放を免れようとする正力の懸命の努力と、「ラジオの父」と呼ばれ米国ではエジソンに次ぐ発明家と言われたリー・ド・フォレスト(一八七三~一九六一)のテレビ局日本開設構想とが出逢ったとき、正力松太郎の野望が動き出す。そして、テレビ局開設を契機としてCIAと深い関係のできた正力が総理大臣の椅子への踏台としたもの、それが原子力発電の導入だった。だが、正力の野望を利用して日本テレビを開局させ、日本に原発を作らせたもっとも大きな力は世界権力の意向であった。強運の正力はその動きに上手に乗ったにすぎない。
●東京浅草の金龍山浅草寺の支院の一つに俗称「待乳山聖天」として知られる本龍院がある。その境内にある石碑に正力松太郎とド・フォレストの名前が両方出てくる。
「トーキー渡来記」と題するその碑文の一部(引用に際し一部表記を変更)を紹介すると、

 リー・デ・フオーレスト博士は明治六年米国アイオワ州に生まれ、無線電信電話の開拓者として有余の特許権を得る。
 ラジオの父と仰がれる。大正一二年更にトーキーを発明、紐育市に於いて上映世人を驚かせたり。
 大正一三年故高峰譲吉博士の令息エヴエン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡米、博士好意により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依って米人技師を帯同帰国。
 大正一四年七月九日宮中に於いて天皇皇后陛下の天覧に供し、各宮殿下のご覧仰ぎたる後、一般公開せり。トーキーの我が国に招来されたるをもって始めとす。
 以来、余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスと博士の許に派して技術を習得せしめ、余の渡米もまた前後9回に及べり。
大正一五年オオモリ撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖楽、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫觴なり。……
 フオーレスト博士は、極東軍総司令官マッカーサー元帥介して余に日本におけるテレビジョンの創設を慫慂したり。余、正力松太郎にその意を伝う。
正力氏夙にテレビジョンの創設の意あり、フオーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し、遂に昭和二七年テレビジョン電波第一号を受け、日本テレビ放送株式会社を創立し、余も、また役員に加わる。翌二八年八月三〇日日本における最初の電波を出せり。
 これ偏に正力の業績に依ると雖もまたフオーレスト博士の日本への友情に基づくものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。……
 フオーレスト博士の文化に貢献する処大なりというべし、茲に、余の旧縁の地待乳山の名蹟を賭してトーキー渡来の由来とテレビジョン創成の縁由を刻して博士の功績を讃えて報恩の微意を表す。  昭和三一年五月吉日        建碑者 皆川芳造

 この石碑によれば、日本にトーキーを導入した縁で旧知の間柄だった皆川芳造の許に、GHQ最高司令官マッカーサーを介しド・フォレストから連絡が届く。日本でテレビをやらないか、という誘いだった。皆川芳造がその話を正力松太郎に持って行ったことが機縁となり正力の日本テレビ開局が実現する……、と書かれているが、事はさほど簡単ではなかった。
●有馬哲夫『日本テレビとCIA──発掘された「正力ファイル」』(新潮社二〇〇六年、宝島文庫二〇一一年刊)は、皆川芳造が正力のところにテレビ開局の話を持って行ったのはさんざん他で断られた末の嫌々ながらの選択であった、と書いている。
 およそ二億円もの設立資金を自分で調達できないと知っていた皆川芳造は鮎川義助をはじめとする実業家たちに当たってみた。ところが却って実業家たちの方から正力を推薦される始末で、結局は正力に話を持って行くしかないと諦める。ド・フォレストは昭和二四年一〇月六日付で、正力松太郎をパートナーとして日本におけるテレビ事業の認可をGHQに申請する。
 GHQの回答は一一月五日付で帰ってきたが、「公職追放令公衆情報メディア条項(G項)のもとでは、正力氏は公衆情報メディアにおける地位から排除され、その地位につくことは禁じられている。テレビが日本に導入されれば、それはまさしくこの公衆情報メディアのカテゴリーに入ることになる」ので、認可できないという内容であった。要するに、テレビ局の役員は公職であるから、公職追放中の正力を役員とした設立認可を出すことはできない、と拒絶されたのだ。
 やむなく、ド・フォレストと皆川は正力の代りを見つけることを余儀なくされるが、テレビ事業に関心を持ち、巨額の資金を集められるのは正力以外にないと思い知らされて、金集めだけに正力を利用し役員にはしないとする認可申請を、翌二五年五月一八日付で提出する。
●ところが、正力もまた只者ではない。GHQにテレビ局開設認可を申請する書簡を皆川書簡の二日前、五月一六日に自分でも出しているのだ。有馬哲夫『日本テレビとCIA』(文庫版、一〇四~一〇五頁)にその正力の書簡が引用されている。

 皆川氏から私(正力)が聞かされたのは、これらの(皆川氏がテレビ事業の話を持ちかけた)実業家は、それ(テレビ事業)は将来有望な事業だが、この種の文化事業を興すのは、機器購入の費用はいうに及ばず、最初の二、三年間の宣伝費用と運転資金を用意しなければならないので、きわめて難しいと語っていたことです。私の意見では、このような事業を興す任に就く人間は、数十億円の資金を募ることができるだけの信用を投資家たちのあいだで得ていて、かつ、並々ならぬ経営能力と会社設立の豊かな経験と計画と実績を持っているだけでなく、大衆を扱うという観点から、営利事業のそれとは異なる感覚も持っていなければならず、したがってこの任に堪えるのは正力氏((ママ))をおいて他にはないだろうということです。そこで私が皆川氏に話したのは、公職追放令の適用に関してなんらかの配慮がなされて、この事業に参加することが許されるなら、私はそれを引き受けるつもりがあるということです。

 皆川たちが金集めに正力を利用するだけ利用したら後は捨てようと考えていたのに対して、正力はテレビ局開設事業を引き受けてもよいが、それには自分の公職追放解除が条件だと相手の足元をすくって見せたのである。
●テレビ開局を目論んだ米国の発明家と日本の活動屋が正力松太郎と泥仕合を演じかねない状況にあったとき、それはまだ実現には「きわめて難しい」夢のような話にすぎなかった。だが、その夢をより大規模かつ一挙に実現しようという戦略構想が、正力書簡から二〇日後の六月五日に米国で発表される。そして正力は米国の全面的な支援の下に、まるで自分自身の計画であるかのように「マイクロ波通信網構想」をぶち上げることになる。