十二支族考 索引 

                      

 イスラエル十二支族考 7 ツラン源流ミヌシンスク文明
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年6月1日第361号)


●文明は南シベリアに始まった
 コーカサス山脈の遙かなる北の彼方に、アンドロノヴォ文化という先進の文化がかつて存在し、ヒッタイト帝国に鉄文化を伝えたフルリ人はあるいはそのアンドロノヴォ文化の担い手の末裔だったのではないか、と先に述べた。そして、膠着語を話すフルリ人の祖先がアンドロノヴォ文化の担い手だったとすれば、アンドロノヴォ文化とは、ツラン民族と深い関係があるのではと想像を逞しくした。
 これを読んだ「まほろば会」(弊誌みち勉強会)の仲間である亀山信夫が『ゆがめられた地球文明の歴史』(技術評論社、本年五月一五日刊、本体一五八〇円)という栗本慎一郎の近著をぜひ読めと紹介してくれた。精力的な情報発信者である亀山信夫はともすれば怠惰横着に流れて安住しようとする私を常に叱咤督励して止まぬ厳しい仲間である。その忠言には素直に従うほかはない。
 読んでみて驚いた。何と! 私の貧弱な想像など足許にも及ばない雄大な構想が展開されているではないか。
 栗本氏は言う。人類文明の策源地はシベリアであると。アフリカ大陸を出発した現生人類の共通の祖先たちは、エジプトを経てシリア・パレスティナ回廊(黄金の三角地帯)を通り、両河(メソポタミヤ)地方に出るが、そこから北上してコーカサス山脈を越え、草原の道に至る。この草原の道が人類の祖先をシベリアへと導き、その地で初めての文明が花開いたのだ、と。
 なぜなら、当時のシベリアは極寒の辺土などではなく、気候温暖で暮らしやすい緑の大地だったからだ。日本人起源論の一つに北方起源説があるが、それはシベリアでマンモス象などの大型哺乳類を狩って楽に生活していた人々が、気候変動による寒冷化のため大型獣が激減したので、主要食糧のマンモス象を追って次第に南下し、陸続きだった間宮海峡を通って北海道に渡り、さらに津軽海峡を経て日本列島に辿り着いた、という説である。
 渡り鳥が北に帰る生態を観察して、かつてシベリアが緑豊かな大地だったことを洞察して「古代緑地」と命名したのは北海道渡島郡上磯(かみいそ)に生まれ古平郡古平(ふるびら)が育んだ詩人吉田一穂(いつすい)(一八九八~一九七三)である。評論集『古代緑地』(昭和三三年刊)は畢生の詩業「白鳥」のための諸論考であったが、その「白鳥」全一五連の中に次の詩句がある。

  
  蘆の史前……
  水鳥の卵を手に莞爾(につこり)、萱疵(かやきず)なめながら、須佐之男のこの童子(こ)。
  産土で剣を鍛つ。

  7
  碧落を湛へて地下の清洌と噴きつらなる一滴の湖。
  湖心に鉤(はり)を投げる。
  白鳥は来るであらう、火環島弧の古の道を。

  15
  地に砂鉄あり、不断の泉湧く。
  また白鳥は発つ!
  雲は騰(あが)り、塩こゞり成る、さわけ山河。


 白鳥が本能的に「古代緑地」の記憶を刻んで渡りを導かれるように、われわれ日本人の深い深い意識の底には、「古代緑地」への憧憬が静かに潜んでいるのではないか。その深い思いが一穂をして「白鳥」を書かせ、栗本慎一郎をして「ミヌシンスク文明」に着目せしめたのだ。「ミヌシンスク文明」とは耳慣れない言葉だが、無理もない。南シベリア一帯に広がる多くの遺跡が発掘され、注目されるようになったのはごく最近だからである。すなわち、教科書には載っていない。そもそも、遺跡群を総合し「ミヌシンスク文明」と呼ぶのも、栗本慎一郎の造語なのではないかと思われる。
 もっとも、遺跡発掘の嚆矢はロシア革命以前の一九一四年で、アチンスク市近傍のアンドロノヴォ村にある墳墓から屈葬人骨や装飾土器が出てきたのが最初である。この村の名前を採って「アンドロノヴォ文化」と名づけられたのだった。だが、長い間無視され続けてきたのである。
 では、「ミヌシンスク文明」とは何であるのか、そしてその地域はどこか。栗本は自らこう説明している。

   そして要はミヌシンスク文明である。北京原人やアジア各地に住みそして絶滅して行った化石人類や   旧人ではなく、現生人類と現代文明に繋がる新人は、みないったん南シベリアに集住したのである。そ  してその移動のルートが西アジア草原(草原の道)だった。
   人類は北アフリカからメソポタミヤへ北上した後、コーカサスを通ってさらに北上、ついで西アジアの草  原を経て南シベリアに至った。現代文明につながるものはインドや中国へもそこから拡散したのだ。
   ……つまり、人類文化の出発地点はオビ川やエニセイ川上流の南シベリアの盆地である。そしてその  地域の紀元前の文明をミヌシンスク文明という。
   ミヌシンスクとは現ロシア・シベリアのクラスノヤルスク地方の南、ハカス共和国の東で、エニセイ川上  流東岸にある盆地名だ。……
   そこを中心に多数の亜新石器時代から青銅器時代の遺跡がある。そして実は西はエカテリンブンル   クの東から、東はバイカル湖東南まで広がる多数の文化群が連なっているうちの一つである。ゲルマン  人にも漢民族にも無名ながら、実に重要な文化群である。(同書六九~七〇頁)

 クラスノヤルスクと聞けば、ようやく思い当たる人もいよう。一五年前の平成九年一一月に、当時の橋本首相とエリツィン大統領が「両国間の領土問題を解決して三年後の二〇〇〇年までに平和条約を結びましょう」と合意したのがこのクラスノヤルスクの地であった。「クラスノヤルスク合意」と呼ばれる所以である。
 クラスノヤルスクは北緯五六度一分に位置するというから、緯度的には樺太の北端(北緯五四度二〇分)よりもさらに北に当たる。ユーラシア大陸の大動脈たる草原の道を今仮にアムール川河口からカスピ海までと考えると、クラスノヤルスクは正しくその中間に位置することになる。
 アンドロノヴォ文化諸遺跡のうちで最初に発掘され命名の元となった遺跡が所在するアンドロノヴォ村はクラスノヤルスクの西方(正確には西北西)一六三キロにあるアチンスク市の近傍にある。
 年代的には、ミヌシンスク文明の遺跡は少なくとも紀元前四五〇〇年前からのものが多数存在するとされているから、わが国の三内丸山遺跡の年代に重なる。
 ただ、年代決定もまだ途上のようで、栗本自身の文章の前後で記述が違っているのも止むを得ない。

●ミヌシンスク文明の変遷
 ミヌシンスク文明は大きく分けると、次の三期に分類できるという。

  ①アファナシェボ文化 (紀前三五〇〇~二〇〇〇年)
  ②アンドロノヴォ文化 (紀前二〇〇〇~一〇〇〇年)
  ③カラスク文化     (紀前一二〇〇~七〇〇年)

 紀元前四五〇〇年前の遺跡も多数あると言いながら、文明第一期の年代が三五〇〇年前からとなっているのも解せないことではあるが、細部を論うのは止めにしよう。
 さらに、その後の展開として、鉄器の使用が始まった

  ④タガール文化    (紀前七〇〇~紀元後一〇〇年)

および、鉄器を中心に巨大墳墓や黄金、馬具、仮面などの特徴をもつ

  ⑤タシュトゥク文化  (紀前一世紀~紀元後四世紀)

を含めることもあるそうだ。
 ミヌシンスク文明全期の総論として、栗本慎一郎はこう書いている。

   ミヌシンスクの三期あるいは五期に分かれる文明では、共通して、石の巨大神殿はなくとも、宮殿と呼  ばれるに十分な建造物(木造)が作られていた。道具は石器から、青銅器、鉄器へと変遷するが、狩猟  と移動が文化の主要路であることは明らかである。
   船及び原生種の祖先となる馬、馬が曳く大型馬車などが展開されたのだ。石造建築など、これに比べ  たら小さな問題だ。鉄器の使用は南シベリアではタガール文化期中の前四~二世紀だが、鉄の製法は  少なくとも一〇〇〇年は前に(メソポタミアの西に隣接した)アナトリア半島のヒッタイト王国にあった。つ  まり南シベリアは人類にとっての鉄の最先端地ではなかったが、問題は、金属に対する姿勢だ。南シベ  リアではアファナシェヴォ時代から冶金技術に熱心な姿勢が顕著で、アンドロノボ(ママ)文明(文化?)   時代には金属の積極利用がやはり顕著だった。……
   要するに、問題は移動と金属だ。この二つが南シベリア文明の根本特徴として存在する。歴史の中で  見るべき要点はこれだ。南シベリアの草原と雪の中における文明は、船や馬や馬車での移動と金属の  積極利用の姿勢を分明に持ち込むものだったのである。


 栗本慎一郎は挙げていないが、第一期アファナシェヴォ文化と第二期アンドロノヴォ文化の間に、

  ◎オクネフ文化  (紀前二〇〇〇~一五〇〇年)

を入れる説もある。オクネフ文化の遺跡分布もやはりミヌシンスク盆地を中心とするが、違いは先行と後続の二つの文明の担い手がコーカソイドだとされるのに対し、オクネフ文化はモンゴロイドによるという点である。
 だがコーカソイドだのモンゴロイドだのという後世の民族分類をこの時代に持ち込むことが適切かどうか、はなはだ疑問がある。ミヌシンスク文明が人類文明の発祥であるとすれば、それを担った人々はいまだ民族分化以前の共通祖先だったと考えた方が自然ではないか。もちろん、後世の民族的特徴となる差異がすでに萌芽していたとの考えもあろうが、同じ地域に住み同種の文明を担っていたという事実は変わるまい。
 ツラン文明に傾倒している私としては、栗本慎一郎が「ツラン」という語を一度も使っていないにもかかわらず、今まで遙かなる源郷として漠然としていた民族揺籃の地を、初めて具体的に明らかにしてくれたかのような感慨を抱くものである。その意味で、今後の研究の発展を切に願うと共に、私も怠惰に鞭打って時々の研究成果を採り入れながら、考えを進めていきたいものである。(つづく)