十二支族考 索引 

                      

 イスラエル十二支族考 9 対ペリシテ人ゲリラ戦争
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年7月1日第363号)


●パレスティナの新主人ペリシテ
先にヒッタイト王シュッピルリウマ二世からウガリット王アンムラピ宛の「海の民Shikalayuに警戒せよ」と記した書簡が残っていることに注目したが、これに対する返信と覚しき書簡が同じくウガリット王宮文書記録から見つかったとする記述に最近になって気がついた。A・マラマットとH・タドモールの『ユダヤ民族史1古代編Ⅰ』(石田友雄訳、六興出版、昭和五一年刊)の中の次の記述である。

 今、七隻の敵船がここに到着して、われわれに大損害を与えました。もし、更に敵船が現われたならば、どうぞ私に知らせて下さい。そうすれば、私は[彼らについて]知ることが出来るでしょう。(同書一四〇頁)

 このウガリット王の書簡がいつ書かれたのか年代は不明ながら、海の民により滅ぼされた国々がラムセス三世八年(紀前一一七四)の葬祭殿碑文に列挙されている中にウガリットの名前が見出せないことから、それまでにはすでに滅亡していたと考えられる。
 海の民による東地中海沿岸地域への大侵攻と定着を可能にした理由の一つとして、最新の鉄製武器を海の民が装備していたことが挙げられる。前述の『ユダヤ民族史1古代編Ⅰ』では鉄製武器がペリシテ人の軍事的成功に寄与したと言い、さらに、

 ペリシテ人が直接、間接に関係を持っていた、たとえば、テル・カシィレ、テル・ジェメ、テル・エル・ファルア、テル・エイトゥン、テル・エル・フル、メギドなどの地点から、前十二世紀と十一世紀の鉄製品が実際に発見された。

とペリシテ人の間における鉄文化の浸透を証言している。
 海の民の侵攻はいわば、青銅文明と鉄文明の交代期に際しての、鉄文明による青銅文明への殴り込みと言ってもよいかも知れない。
 もっとも、戦車と鉄製武器によってメソポタミヤに覇を唱えたといわれるヒッタイトまでも海の民に蹂躙され、亡ぼされているから、単に鉄製武器の優勢だけが原因でないことは明らかである。
 エジプト帝国は海の民の侵攻に対して敗北はしなかったが、彼らを完全に撃退あるいは撃滅することもできなかった。エジプトにとってパレスティナ地域はメソポタミア方面への重要な出撃路であり、軍事的防衛回廊をなしていたが、そこに海の民が居座ることをエジプトは黙認せざるを得なかった。ガザというエジプトにとっての最終的防衛要衝を傭兵という大義名分の下にペリシテ人に明け渡したことは、この不名誉な事態を端的に象徴している。
 メルエンプタハ五年(前一二〇八)の大カルナック碑文に「イスラエル」という名前が地域限定詞を伴ってではなく民族限定詞とともに登場しているからと言って、イスラエル民族がすでに強力な民族集団として形成を終えていたと考えるのは早計であろう。
 地域限定詞をもたないということは、いまだ「イスラエル」という村も町も出現していなかったことを意味する。カナンの地に「イスラエル」と呼ばれる人々がいたことだけは紛れもない。だが、エジプトの自画自賛の文脈の中で、「イスラエルは滅ぼされて、その種(子孫)は絶えた」と一蹴されているのは、エジプトにとってイスラエルの存在が取るに足りない、無きに等しいからだった。
 パレスティナにおけるエジプト覇権を受け継いだのはイスラエルではなく、海の民であった。ユダヤ人の伝承ではこの新しい支配者をペリシテ人と総称している。エジプトの政治的・軍事的拠点だったガザとアシュケロン、アシドドはパレスティナの肥沃な南部海岸平野に位置していたが、これらの都市はいずれもペリシテ人の手に渡った。さらには、エジプトに対してその覇権に服しながらも半独立の地位を保っていたカナン人の町ガトとエクロンも、ペリシテ人によって破壊された後に再建された。つまり、ペリシテ人に奪取されたのだ。以上の五つの都市はすべてペリシテ人により抑えられ、いわゆる「ペリシテ五都市(ペンタポリス)」と呼ばれることになる。
 では、イスラエルはどこに住んでいたのだろうか。ユダヤ人自身に聞いてみよう。

 ……最初のイスラエル人居住地は、主としてカナン人人口が希薄であった丘陵地帯に集中し、そこでのみイスラエル人は主権を確立することが出来た。これらの空白な山岳地帯では、主として森林を開墾することによって、広範な居住のための耕作地を造成することが可能であった。(前掲書一〇五頁)

 つまり、人の住まない山岳丘陵部に隠れ住んだのである。それも、「森林を開墾する」という苛酷な作業を通してのみ可能となったのだった。森林を切り開いて得たわずかな耕地を天水に頼って耕作しながら転々と所を移して半遊牧の生活を余儀なくされた人々、それがエジプトの国際都市アケトアテンからカナンに追放されたイスラエルの実態であった。
 このようなイスラエルにとって海岸沿いの肥沃な平野と拠点都市をすべて抑えていたペリシテ人に対する戦いが、いかに無謀な試みであったかは改めて言うまでもない。当初はてんで問題にもならなかったと評するのが、適切であろう。

●イスラエル対ペリシテ戦争
 カナンに追放されたイスラエルの前には、当然ながらカナンの土着勢力が立ちはだかった。以前にイスラエルをエジプトによるカナンへの屯田兵ではなかったかと指摘したことがあるが、大国エジプトの覇権あればこそ屯田兵でありえたろうが、エジプトの支配力が衰えてくると、屯田兵とはすなわち「棄民」の別名にほかならないことになる。つまり、生きるなり死ぬなり勝手にしろ、というわけだ。
 それにしては、イスラエルは苛酷な境涯をよく凌いで、生き延びたと言うべきである。とはいえ、海の民の第二次侵攻を記したとされるラムセス三世八年の葬祭殿碑文によれば、イスラエルは依然として定着すべき拠点都市を持たず移動放浪の民族集団と見なされていた。海岸に近い平野部に出ていくことができなかったイスラエルの生活拠点は定住当初と同じように山岳丘陵地帯にあったのである。カナンの土着勢力からすれば、イスラエルは夜陰に紛れ山から下ってきては略奪強盗を恣にする無頼の徒と恐れられたとしても、無理はない。すなわちカナンにおける強盗殺戮集団として紀元前二〇〇〇年から一〇〇〇年までのエジプト碑文や、マリ文書、ヌズィ文書、アマルナ書簡などの記録に残る apiru (エジプト語) habiru=hapiru (アッカド語)は必ずしもイスラエルという特定の民族集団を指す言葉ではなかったが、少なくともカナン定着以後、ダビデ王国成立までのイスラエルがこのような強盗殺戮集団の一派と見なされ恐れられていた、と考えても何ら不都合はない。
 イスラエルに対して周囲の人々が呼んだとしてユダヤ人伝承に残されているヘブル 'ibri という集団名は明らかにアピルハピルハビルと言語学的にも関連がある。
 ユダヤ人学者もこう認めている。

 もしイブリ(ヘブル人)とアピル、あるいはハビルの間に何らかの関係があったとするならば、イブリも、また、元来、社会階層を指した語であったことが明らかとなる。この観点から見ると、'ebed 'ibri(ヘブル人の奴隷)の概念は新しい意味を持つ(出エジプト記21章2節他)。同様に、その他のイブリの用法、たとえば「ヘブル人アブラム」(創世記14章13節)にも当てはまる。彼は、完全な市民権を持たないカナンの外来者であった。(前掲書七五頁)

 つまり、「得体の知れないよそ者」として常に警戒され、時には実際に、強盗殺戮を働いたのがカナン定着後のイスラエルだった。
 この否定的なニュアンスを多分にもつ一般語を自らの人種的な意味合いを込めた民族名としてイスラエルが受け容れたということこそ、驚くべき画期的なことだと言わなければならない。どのような民族にとっても、その民族名は神話伝説に基づく輝かしい栄光に満ちたものであるはずである。にもかかわらず、卑しむべき「お里」が知れることを承知しながら、あえてイブリ=ヘブライ人と名乗ることを選択したユダヤ伝承編纂者たちの屈折した心理にこそ思いを致すべきなのであろう。ユダヤ人の伝承に憎悪と咒詛が渦巻いているのも故なしとしない。
 もっとも、その胸奥深くには、ユダ(イェフダ)という誇り高き名前と、イスラエル(その他雑多な人々)というやや誇らしくない名前とが秘められていたのではあるが……。
 イスラエルとペリシテ人との戦いは、したがって初期には山岳丘陵地帯からやって来る強盗集団に対するエジプト正規軍の防衛戦という様相をもっていた。

 ペリシテ人は、その技術的、軍事的優越によってカナン人とイスラエル人に対する支配権を獲得した。この軍事的優越は、完成された武器と、精鋭部隊を先頭に立てたよく訓練された職業軍隊の産物であった。……エジプト軍のように、ペリシテ人の攻撃隊は、弓隊と共同作戦をする兵車隊によって援護されていた(サムエル記上13章5節)。……
 ペリシテ人の遠征隊(マシユヒツト)は、セティ一世がベトシェアン峡谷で行なった懲罰遠征の型で、しばしば三分隊に分かれて展開した(サムエル記上13章17節)。このような部隊の助けを借りて、ペリシテ人はイスラエル人が企てるすべての反乱を弾圧し、彼らから税をとりたてることが出来た。更に、金属製造を独占することによって、いよいよイスラエル人を苦しめた。この方法で、ペリシテ人はイスラエル人の再武装とその工業的発展を阻止するという二重の目的を達成したのである(サムエル記上13章1922節)。(前掲書一四八~一四九頁)

 すでに上の記述にも出ているように、ペリシテ人は終始防衛戦に徹していたわけではない。エジプト人学者の筆によれば「弾圧」という糾弾的言辞が用いられているが、むしろ地域の平和を乱していたのはイスラエル側であった。イスラエル人ゲリラ隊が出撃の拠点としていた山岳部を叩こうとするのは戦闘遂行上の自然の流れで、防衛から攻勢へと転じるのは、時間の問題だったのである。(つづく)