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 ツラン源郷への日本民族大移住計画 2 
         (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)7月15日第364号) 

●伊達宗義先生の強烈な言葉が胸に突き刺さったまますでに何年も経った。「わが国には支那通(しなつう)をもって自負した軍人が影佐(かげさ)貞昭(さだあき)をはじめ何人もいた。だが、支那人をまったく理解していなかった」と洩らされた言葉である。余人が言うならまだしも、誰よりも支那を愛し、人民解放軍の創設にも自ら尽力を惜しまなかった伊達先生の言葉である。しかも御父上は支那に帰化して張宗援と名乗り将軍として山東自治聯軍を率いて戦った伊達順之介である。その父の元に幼少にして日本から駆けつけた熱血の人にして、この言有り!
 伊達先生の真意は、「同文同種などと支那人を理解したと安易に思うな。日本人と支那人はまったく異なる」というものであったと思う。このような識者の訓戒をよそに、ほとんどの日本人は支那に憧憬と恋慕を寄せた。それは常に一方的な恋慕であり、日本人共通のビョーキと化した観がある。支那人の方では屁とも思っていないにも拘わらずである。かつて「暴支膺懲」と口では唱えながらついに恋慕を断ち切れなかった日本人は戦後も同じ過ちを犯し続けている。この嘆かわしい事態を戒めたのは、伊達宗義先生と日本人の中の「からごころ」に気づいた本居宣長と遣唐使停止を上奏した菅公こと菅原道真くらいではないか。
●ところが戦前にあって、稀有なことに日本人の通弊ともいうべき支那への恋慕から完全に醒めていたのがツラン協会の論客だった野副重次である。『ツラン民族運動と日本の新使命』のなかで野副が支那革命思想の淵源である殷周革命について述べている断定を聞けば、その対支那人觀は以て知るべしであろう。

 ……爾後三千年に亘る北方民族(ツラン民族)と漢民族との爭ひも、又その南下も、實は、漢民族によつて奪はれたる祖先の霊地回復の義軍であつたのである。然るにも拘らず、孔孟におもねるためか、我が國の史家も、儒家も、自身ツングース、ツランであり乍ら、異族漢人の欺瞞文献にあやまられ、漢民族たる周の、にくむべきこの殷地侵略をば、天の命によるといふ美名を以て唱和してゐる。而して略奪者文主、武王をば聖人として稱贊し、紂王を典型的悪逆無道の暴暗君と貶し、又その後數千年に亘るツランの舊地回復の義軍をば、北方蠻族の中国侵入と断じて、痛罵問責してゐるのである。(同書四一~四二頁)

 野副ははっきり「異族漢人」と述べ、その欺瞞文献に日本人が誑かされていることを嘆いている。NHK取材班が中共のお許しの下に製作した美しい「シルクロード物語」の裏で、番組で採り上げられた「少数民族」が実は中共による族滅政策の対象として存亡の危機に瀕していたという現実をわれわれ日本人は想像だにし得ないだろう。支那人と日本人が相容れない異族同士であることを喝破したこの一事をもつてしても、野副重次の見識は大したものと言うべきである。
●野副重次とはいかなる人物であるか。浅学には詳しいことはまだ何も分かっていない。ただ、家田修という人が「日本におけるツラニズム」と題した論文の中で、野副重次が満洲国興安省で官吏をしていたと書いていたような記憶がある。野副は満鉄調査部や関東軍諜報機関と関係を持っていたとも書かれていたように思う。してみれば、すでに大正末期に満洲各地で調査諜報活動に従事していたという北川鹿蔵(きたがわしかぞう)の後輩格に当たるのかも知れない。北川鹿蔵もまたツランの論客だった。