みょうがの旅    索引 

                    

 不在の美学 ── 鈴木利男書画展に寄せて 
                (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)9月1日第366号) 

●八代亜紀が歌った流行歌「舟歌」の、

 ♪ しみじみ飲めばしみじみと
   思い出だけが行過ぎる
   涙がポロリとこぼれたら
   歌い出すのさ舟歌を

という下りが、鈴木利夫さんの胸にも滲みるらしい。
 色紙にこの歌詞を書き、危なかしく扁舟を操る一人の男を描いている画がある。
 その男の左目から、涙が一粒「ポロリ」とこぼれている。黒い頭巾を被った男の頭の脇には鴎が一羽飛んでいる。奔騰する波と静かな空、その間(あわい)で、船を操る男の、何か深い思いに耽っているような姿のコントラストがいかにも軽妙である。そして、男の着る上衣の緑色が妙に生々しく迫ってくる。
「舟歌」は作曲浜圭介、作詞阿久悠の演歌であるが、この演歌を鈴木さんは、いわば鈴木版現代万葉集に選録して後世に残すべき昭和の名歌だと見たのである。
●自分なりの好き嫌いはあっても凡そ絵画に疎い私なぞが展覧会に先だって作品を内覧させて戴くなどということは、それこそ分に過ぎたることである。だが、内覧させて戴いた者の責任として、今回の書画展を貫く鈴木さんの思いをお聞きしたので、記しておきたい。
 それは日本の美とは「不在の美」であるという、鈴木さんの洞察である。菱田春草の屏風絵「菊慈童」を見せていただきながら、お話を伺った。確かに、画面には主人公の菊慈童の姿はどこにもない。菊慈童がその露を飲んだという菊と、使った柄杓と、そして水が描かれているだけである。
 鈴木さんによると、日本の絵にはテーマをあえて描かないという流儀があるという。尾形光琳の八橋屏風にも「かきつばた」の五音を頭にして歌を詠んだ在原業平の姿はなくて、ただカキツバタの花だけが見事に描いてあるのだそうである。あえて主題を書かないということは、見る者に無限の想像を託し許すという配慮であろう。その底には、絵画とは作者と見る者とのいわば共作合作だという考えがある。
●「サヨナラダケガ人生ダ」という今回の副題も、別れの刹那にこそ人と人の繋がりのすべてがあるとする日本的美学の端的な表現である。これもまた、一種の「不在の美学」である。
 思えば、われわれの人生は多くの不在と欠如を抱えながら、それでも山頭火のように「石を枕に雲のゆくへを」追うという人生を生きている。
「春が来た 春が来た どこに来た」と探す民族は、世界のどこにもないだろう。しかし、この底が抜けたような天真の爛漫さは愉快である。
 鈴木さんが選び取った「現代万葉集」の言葉を連ねてみよう。

坂村真民 「足を知れ」
神沢杜口 「のこる世を其日ぐらしの舎り哉」
種田山頭火「やっぱり一人がよろしい雑草」
……

 ここには、物質文明に頑として靡かない日本の心がある。日本の文明は、無い物を何としても得んとして欲を募らせ権謀と術数をも尽くして我が物とするような態度とは無縁である。むしろ、足らざるを足らざるままに受け容れ、足らざることの中に豊かさと自由ささえ感得しようとする。「在る」ことよりも「不在」にこそ思いを致す日本の美学は、日々の暮らしがどれほど市場経済に蹂躙されようと、まったく汚されず染まらず、人々の胸底にしっかりとあるに違いない。このことを鈴木さんの書業・画業が優しく教えてくれるのだ。
 展覧会は下記の通りに開催される。時間を作り出してぜひとも足を運ぶことを奨めたい。

サヨナラダケガ人生ダ ── 鈴木利男書画展
  平成24年9月24~29日
  東京日本橋 壺中居
  〇三・三二七一・一八三五