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 慶喜公への渋沢栄一終生の敬仰 1
       (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)1月15日第374号) 

●限られた紙幅の本欄に司馬遼太郎のごとき輩の文を引くのは大いに憚られるものがあるが、今や「国民作家」のように見なされ、その悪しき影響も世に蔓延り害毒を垂流している関係上、あえて俎上に載せた。その意図はただ、司馬が慶喜公を「猿芝居を演じた精神異常の貴族」として描いたことを確認せんがためである。
 これに対し、武州榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村の一農民に身を起こし、齢二五歳にして一橋家の家来となって以来、慶喜公を終生にわたって敬仰しつづけた渋沢栄一の慶喜観はまったく異なる。慶喜公をこそわが主君と戴き、「一たび公を主君と戴いた以上は、身を終はるまで臣子の分を尽くさねばならぬ」と決めていたのが渋沢である。その渋沢栄一にすら、一時は慶喜公に対して「余りに腑甲斐なき有様」と憤慨した時期があった。
●幕末維新の激動の最中、慶応三年正月より明治元年(慶応四年)一一月まで慶喜公の御弟徳川武昭に扈従しパリ万国博へ出張していた渋沢にとって、この間の慶喜公の出処進退は理解に苦しむものであった。

 斯くて横浜の埠頭に帰着した後は、百事滄桑(そうそう)の歎に耐へなかつたが、中にも慶喜公の御境涯については、去年出発の時と今日と、僅かに一年半の歳月であるに、斯くも変化するものかと、最も無量の感慨に打たれた。公は此時既に駿府(すんぷ)に隠退して居られたので、直(ただち)に拝謁も出来ず、公の御心事を二三の知人に就いて聴いて見ても十分に了解し得ぬ。既に大勢を看破せられて政権を返上なされたからは、何故に鳥羽・伏見に於て戦端を開かれたのであるか、仮令(たとい)公の御意中には求めて戦争をしやうとは思召さぬでも、大兵を先供(さきども)として入京すれば、防禦の薩長の兵と衝突の起るのは必然の理である。それ程の事を御察しなさらぬ筈はない。果して御察しなされたとすれば、已むを得ざるに於ては、戦争も辞せぬ御覚悟であったやうにも思はれる。然る時は何の爲に大阪から俄に軍艦で御帰東なされたであらうか、尋(つい)で有栖川宮の大総督として東征の際に於ては、一意恭順謹慎、惟命是れ従ふといふ事に御決心なされたのは何故であらうか、幕臣中に相当の知識も胆力もあつて、武士の意気地已むを得ぬといふ覚悟を持つた人をも断然として排斥して、怯懦と言はれ暗愚と評せられても、聊も(いささか)弁解せぬといふ御決心までなされたのは何故であらうか。是等の御挙動は実に了解に苦しむ所であつた。

 以上は、渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(本伝篇四巻、附録篇四巻、龍門社、大正六年刊)の本伝のみ再刊した平凡社東洋文庫『徳川慶喜公伝』(全四巻、昭和四二~四三年刊)の第一巻巻頭に載せた「自序」の中で渋沢が偽らざる疑問を述べた下りである。さらに渋沢は、主君に対する憤慨まで口にする。

 公の御動作に関して余りに腑甲斐なき有様を憤慨し、天子に対しては何様の事も犠牲にせねばならぬといふ、公の御趣旨は御尤(ごもつとも)であるけれども、実際は薩長二藩が事を構へ、朝命を矯(た)めて無理に幕府を朝敵としたのである、幕府が若(も)し力を以て之を制し得れば、所謂勝てば官軍で、薩長側が却つて朝敵となる事は、元治元年蛤御門(はまぐりごもん)の先蹤(せんしよう)が歴然である。是れは道理から論じても、事実から見ても、甚だ明瞭だと信じて居たから、公の思召しの程を何分にも能く了解し得なかつた。(同書一〇頁)

 この当然の疑問と憤慨を渋沢はどのように解消したのか。(つづく)