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 慶喜公への渋沢栄一終生の敬仰 2
       (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)2月1日発行第375号) 

●「人は権勢に阿附(あふ)せず、情義に厚き行動を以て一生を送らねばならぬといふ事は、少年の時から、厳父の庭訓によって深く骨髄に染みて居た」という渋沢は、薩長の牛耳る維新政府に奉仕する考えなど毛頭なく、主君と仰いだ徳川慶喜公のために一生を捧げる覚悟であった。
 そこで、明治元年の一一月にフランスから帰朝した渋沢は時を経ず(その年の冬とある)駿府に幽閉されていた慶喜公の下に参上した。
 時は夕暮れで、行燈の光に照らして見る宝台院の幽居のありさまは、昨年フランスへの出発前とは打って変わる侘び住まい。暗涙に咽びながら出座を待つうちに、慶喜公がお出ましになる。
 ご機嫌伺いもそこそこに、「政権返上の事、又其後の御処置は如何なる思召であらせられたか、如何にして此の如き御情なき御境涯には御成り遊ばされたか」などなど、かねてからの宿疑が思わず口を突いて出る。
 それに対して、慶喜公は泰然として、「今さら左様の繰言は甲斐なき事である。それよりは民部が海外に於ける様子はどうであったか」
と、話題を弟君の昭武公に転じて話を逸らすばかり。渋沢も察してパリ万国博での昭武公の御様子などを言上したので、渋沢の胸裡にあった宿疑はこの日の拝謁ではついに解けることがなかった。
●平凡社東洋文庫『徳川慶喜公伝』の第一巻巻頭「自序」において、渋沢が述べているところをみると、慶喜公は渋沢の宿疑を解くような説明を直接には最後まで語らなかったようである。では、渋沢はどうしたのか。様々な人の話も聞き、二〇年の歳月をかけて自ら思いを巡らした後に、「察した」のである。渋沢は言う。

 斯くして追々と歳月を経るに従つて、政権返上の御決心が容易ならぬ事であつたと思ふと同時に、鳥羽・伏見の出兵は全く御本意ではなくて、当時の幕臣の大勢に擁せられて、已むを得ざるに出た御挙動である事、而して其事を遂げんとすれば、日本は実に大乱に陥る、又仮令(たとい)幕府の力で薩長其他の諸藩を圧迫し得るととしても、国家の実力を損する事は莫大である、殊に外交の困難を極めて居る際に当つて左様な事をしては、皇国を顧みざる行動となると悟られた為である事、又茲に至つては弁解するだけ却て(かえつ)物議を増して、尚更事が紛糾するから、愚と言はれやうが、怯と嘲られやうが、恭順謹慎を以て一貫するより外はない、薩長から無理と仕懸けた事ではあるが、天子を戴いて居る以上は、其無理を通させるのが臣子の分であると、斯く御覚悟をなされたのだといふ事を理解したのは、実に明治二十年以後の事であつた。(同書一四頁)

●かくして、自ら察することにより「もしもあの時、慶喜公が小勇に駆られ卒然として干戈を執って起たれたならば、日本が如何なる混乱に陥ったか」を思い、「真に国家を思ふの衷情があれば、黙止せられるより外に処置はなかった」と心底で納得し、「公が国を思ふ所の御思慮の深遠なる事は、私どもの凡慮の及ぶ所でない」と深く感激、「他人よりは逆賊と誣(し)ひられ、怯懦と嘲られても、じつと御堪へなされて、終生之が弁解をもなされぬといふは、実に偉大なる御人格ではあるまいかと、尊敬の念慮は弥益(いやますます)切なるのであった」と渋沢は言う。
 われわれもまた、司馬遼太郎の如き奸佞の輩の垂れ流す世上軽薄なる慶喜公蔑視に与せず、慶喜公に対する渋沢の敬仰に深く思いを致したい。