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  慶喜公への渋沢栄一終生の敬仰 3
          (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)2月15日発行第376号) 

●『徳川慶喜公伝』の中の「自序」において渋沢栄一は、明治も二〇年以後になって初めて慶喜公の胸中を自ら察したと書いているが、それはどうも信じがたい。渋沢栄一がただ単に慶喜公を敬仰するだけの人物であったならば、栄一自身の生涯も、さらにはその子孫たちの生き方も少し違った形になったのではないかと思われる。
『徳川慶喜公伝』の最終章は「第三十五章逸事」と名づけられた雑録集であり、本伝は「第三十四章公爵の栄班及薨去」で終っている。その末尾において渋沢は慶喜公の生涯を総括して次のように述べている。

 謹みて按ずるに、公もと英雄の質、胸に絶大の経綸を蔵し、奇才縦横、辯舌亦流るゝが如し。其幕府の末造に当り、身を挺して国難を處理し給ふや、剛毅果断、大局に処して其道を誤らず、政権を平和の中に奉還して、幕府有終の美を挙げ、謹慎を兵馬の間に堅持して、国家興隆の気運を速ならしめたり。其出処進退、悉(ことごと)く皆君国を思ふの念に出でゝ、一身の毀誉(きよ)安危を顧み給はざりき。公の退隠せられしは、春秋方(まさ)に三十二、人生最も有為の時なりしに、尚能く天命に安んじて、深く自ら韜晦(とうかい)し、其絶大の経綸を抛(なげう)ちて、世塵の外に逍遙するもの五十年、天下の一隠士を以て終りなんとす、英雄回首即神仙とは実に公の謂(いい)なるべし。(東洋文庫版第四巻二八〇~二八一頁)


 徳川慶喜とは何者であるか。渋沢は言う、「もと英雄の質、胸に絶大の経綸を蔵し、辯舌亦流るゝが如し」であると。してみれば、「政権を平和の中に奉還して、幕府有終の美を挙げ、謹慎を兵馬の間に堅持して、国家興隆の気運を速ならしめた」のみならず、その「絶大の経綸」を、「辯舌亦流るゝが如し」によって旧幕臣に実行せしめたのではないか、と私は疑うのである。そして誰にもまして率先して慶喜公の抱いた大経綸を実行したのが、渋沢ではなかつたのか、と。
●確かに、渋沢栄一は慶喜公の生涯の総括として、その後半生を次のように断じている。

 嗚呼(ああ)公が遺憾なく其英資を発揮せられしは、公の前半生なり、前半生の余勇を移して、自ら其鬱勃の鋭気を葬れるは公の後半生なり、其身を君国に致す所以に至りては、即ち一なり。公の進退出処、共に国家に関する此の如く、公は殆ど武家政治七百年の局を結ばんが為に生れ給へるものに似たるは、或は天の公を此際に降して、皇国の為に難局収拾の大任を負はしめ給へるものか。されば公の公生涯は、政権を奉還して皇謨(こうぼ)を賛襄(さんじよう)し給へるに終を告げたるなり。(同二八一頁)

 慶喜公の生涯は大政奉還を果たした時点で終つたのだ、と渋沢栄一は言うのだが、本当にそうであろうか。
「大経綸」の中心として自らは一隠士を韜晦して動かず、勝海舟や榎本武揚、渋沢や益田孝などが慶喜公の意を体して維新後にそれぞれの役割を担ったのではなかろうか。
 何よりの証拠には、渋沢栄一が明治二年に慶喜公お膝元の静岡にて「商法会所」(コンペニー)を作ったことが挙げられよう。これは徳川公金を活用して新時代に対応した金融事業を運営するために創立された会社だったのではないか。渋沢が数知れぬほど沢山の銀行の設立に関わるのもその使命の然らしむるところだったのだ。
 私は疑う。『徳川慶喜公伝』の公刊自体が、維新後にも大経綸の中心にあった慶喜公の実際の事跡を晦ますために実行されたのではないか、と。