みょうがの旅    索引 

                      

  日本人音吉と福沢諭吉 1 
   (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)5月1日第381号) 

●一五〇〇石積の尾張廻船宝順丸が米と陶器などを知多半島西海岸の小野浦で積んで、鳥羽港で風待ちをした後、江戸へ向けて船出したのは、天保三年(一八三二)一〇月一一日(旧暦)のことである。遠州灘で遭難し太平洋を漂流すること一年と二ヶ月もの長きに及んで、カナダのフラッタリー岬に漂着したときには、当初の船頭重右衛門以下一四名の乗組員のうちの、わずか三名しか生き残っていなかった。
 ある者は波に攫われ、ある者は餓死し、あるいは狂い死にした者もあっただろうことは推測されるが、漂流中の苦難の詳細についてはいっさい分からない。漂流中の苦難を細々と描く三浦綾子の小説『海嶺』は、小説家の想像力が紡ぎ出した架空の物語にすぎない。
 生き残ったのは岩吉(いわきち)(岩松とも)と久吉、(きゆうきち)音吉(おときち)(乙吉)の三人で、岩吉が満二八歳、久吉と音吉は一五歳と一四歳の見習水夫の少年であった。苛酷な漂流の日々は一人の青年と少年二人を除く船乗り全員の命を奪い去ったのだった。小野浦にある臨済宗寺院、禅林山良参寺の過去帳には「十月十一日志州鳥羽浦出舩(せん)没所相不知」と朱書した後に乗組員一四名全員の戒名と命日、俗名が記され、岩吉は「嵓海波松信士、十月十二日、宮宿岩松㕝」、久吉は「呑海了夢信士、十月十二日、又吉伜久吉」、音吉は「満海寂圓信士、十月十二日、武右衛門伜」と書かれている。一四名全員の命日を、行方不明のまま止むなく鳥羽出港の翌日一〇月一二日と記しているのも異様で、いっそうの哀れを催す。
●先に熱田神宮参道の精進川に掛かる裁断橋擬宝珠銘文のことを書いたのは、お蔭参りの行列に紛れて小野浦を出奔した少年久吉が裁断橋で岩松に助けられる一場面を『海嶺』が描いていたからで、資料を調べ尽くした末にいかにもありうべき情景を創造した小説の筆の巧みさに痛く感心したものである。文書の性格が異なるとはいえ、良参寺過去帳に困惑の余り命日を同日とした乱暴さと、委細を極めんとする小説家の熱意とは、まったく方向を逆にしながら死者を哀惜する真情において深く通底し、それはまた堀尾金助の母の祈りにも通じると思ったのであった。
●鎖国下の祖国日本への帰郷が困難であることは次第に音吉たち三人にも分かってくるが、望郷の想い断ちがたく、それぞれ様々の思惑を抱いた人々に助けられて、米国オリファント商会所有の商船モリソン号に乗って浦賀沖まで帰ってくる。時に天保八年六月二九日(西紀一八三七年七月三一日)、鳥羽を出港してより四年七ヶ月以上もの歳月が過ぎていた。当時の国法であった「外国船打払令」による砲撃に遭って退去を余儀なくされた音吉たちは薩摩藩に一縷の望みを託し鹿児島湾に入る。ここでは役人による聴取りを受けて、いきなり砲撃は受けなかったものの、結局は砲撃され止むなく退去する。
●それから二五年が経った文久二年(一八六二)正月に出発した幕府遣欧使節の一員となった福沢諭吉は、日録「西航記」の正月一九日条にこう記した。

 旅館にて日本の漂流人音吉なるものに遇へり。音吉は尾州蔦(知多の誤り)郡小野村の舟子にして、天保三年同舟十七(ママ)人と漂流して北亜米利加の西岸「カリホルニー」に着し、其後英に行き、英国の戸籍に属して上海に住し、新嘉坡(シンガポール)の土人を娶り三子を生めり。近頃病に罹りて攝生のため十日前本港に来り、偶(たまた)ま日本使節の来るを聞き来訪せり。        

(つづく)