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 日本人音吉と福沢諭吉 2 
   (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)5月15日第382号) 

●文久二年正月元旦に長崎を出航した英国船オージンには幕府遣欧使節団の一行が乗りこんでいたが、その一員に連なっていた福沢諭吉と日本人音吉の邂逅を採り上げて紹介したのは春名徹(まるなあきら)『にっぽん音吉漂流記』(一九七九、晶文社刊)である。大学で東洋史を専攻した春名氏は中央公論社に勤めつつ「近代日中関係史」に関心を寄せ研究を進める内に「近代日本人の中国認識の歴史のなかで、日本音吉は、最初に置かれるべき人物である」との見解に達し、「他の勉強を一時、棚上げにして、余暇のすべてを音吉のために費やすことに」して三年余りの歳月をかけて音吉の評伝を書いた。作家井上靖も「一人の日本の漂流民が辿ったただならぬ運命の軌跡が、夥しい史料を駆使して、鮮やかに捉えられ、大きな感動を以て迫ってくる」と推薦文を寄せたほどの労作である。
●春名徹氏が日本音吉の評伝を纏めたこと自体が大へんな業績であるが、私には同書の次の一節が忘れられない。

 福沢諭吉は、シンガポールの一夜、アヘン戦争や太平天国に関する中国の事情について音吉からいろいろと教えられるところがあった。が、それにもかかわらず福沢の音吉に対するまなざしは冷ややかなものであった。福沢の方は、音吉の知識を摂取するには熱心であったものの、彼がそのように目新しい知識を得る代償としてほとんど日本人であることを放棄せねばならなかった、という事情については深く考えなかった。福沢にかぎらず遣欧使節一行の目からは、音吉は所詮「尾張の船子」という身分のちがう存在にしかすぎなかったようである。一方、音吉の側は、漂流者として既に日本の身分秩序の外に生きている。しかも彼は、国外に出た日本人に対して先達の役割を果すことを自己に課し、そこに自分の存在の意義を見出そうと決意して久しい人間である。彼がシンガポールでわざわざ日本人たちを宿舎に訪ねたのは、遣欧使節側が勝手に判断したように、単純に故郷をなつかしんだだけではなかったはずであった。
(一九~二〇頁)

 後に近代日本を牽引する指導的役割を果す遣欧使節一行が日本音吉に学ぶ必要を何ら感じなかったことこそ近代日本の不幸だったと私は思うのだ。
●日本音吉は先達として何を日本人に伝えようとしていたのか。それを端的に示す音吉の言葉がある。

 青年時代に長年、イギリスの軍艦、商船に乗組み、戦争を十四回も経験したという音吉は「五大州の内かわるがわる治乱有りて、戦争の断間とてはなし」という認識をもっていた。なかでも「英吉利人の狡黠な(わるこすき)る事、世界に冠たり、……取りて益なき所は取らず、又取り度(たく)思ふ地にても、取りやすければ己一力を以て取り、かたき所は外国の人を仕懸けて、己は側より見物いたし……遂には……思ふ儘(まま)押領なせり」である。(二四八~二四九頁)

 英国が清国に対し仕掛けた植民地化工作の一部始終を、阿片戦争から太平天国の乱に至るまで、英国側の一員として音吉は見届けていた。そのうえで音吉は英国の狡猾さを見抜いたのだ。その英国に学ぼうという祖国遣欧使節に危うさを音吉は感じていた。祖国に拒絶され遂に帰国できなかった音吉はしかし、祖国への熱い思いを捨て去ることはなかった。後に「脱亜入欧」を唱える諭吉らの危うさを、夙に音吉は察知して警告せずにはいられなかったのである。その音吉の思いをわれわれは今こそ学び伝えなければならない。