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 日本人音吉と福沢諭吉 3 
    (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)6月1日第383号) 

●福沢諭吉の肖像画は日本中に溢れているので、名前を知らない者はまずいないだろうと思われる。一万円札の表に刷ってあるからだ。ただし、「聖徳太子」と言えば、ほぼ十中八九、「お金」や「一万円札」が連想されたのに比べると、昭和五九年以来三〇年近くも世人の手垢に塗れてきたのに、認知度はイマイチのようだ。一万円札の代名詞として「福沢諭吉」を使う例は、ほとんどないと思うのだが……。
●とはいえ、福沢諭吉が日本の近代化に大きな足跡を遺したことは紛れもない。明治維新という、神武創業や大化改新~壬申の乱にも比べるべきわが国の一大変革に際し、その方向を導いた指導者の一人だったことは間違いあるまい。影響は今日になお及んでおり、アルファベットのV字を「ヴ」と翻字する等の創意工夫に始まり「経済」「貸方」「借方」「文明開化」「演説」などの新しい概念を漢語で表記したのもみな福沢諭吉の功績による。現在のわが国の諸制度は福沢諭吉が敷いた日本近代化、「文明開化」の路線を一貫して進んでいると考えてよい。したがって「明治維新」とは何だったのかを俎上に載せ改めて吟味するときに、福沢の思想の核が奈辺にあったかを確認することは重要である。
●福沢諭吉が二度目の洋行の途中にてシンガポールに寄港した際の日記に、「日本の漂流人音吉なるもの」の来訪を記したことは先に述べたが、そこに「英国の戸籍にて上海に住し」、デント商会で働いていた音吉の大英帝国についての弁を一字一句も残していない。故国存亡の危機を敏感に察知していた音吉が縷々訴えたであろうにも拘わらず、である。福沢自身すでに、「立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける」(ウィキペディア)という体験がありながら、むしろそうしたアジア植民地支配を可能にした英国政治体制を理想として仰ぐ「脱亜入欧」思想に邁進して行くのである。ここに私は、多大なる業績を残した福沢諭吉の限界を見る。
●福沢諭吉の思想と行動に私が違和感を感じる点がまだある。それは「咸臨丸記念碑」に記された榎本武揚の撰文「食人之食者死人之事」を見て福沢が激怒したとされるエピソードである。現在の静岡県清水区興津清見寺町にある白鳳時代以来の古刹清見寺の境内に、侠客清水次郎長と榎本武揚らが戊辰戦争に際し戦死した咸臨丸乗組員のために、明治二〇年四月一七日に建立して法要を営んだ慰霊碑がある。碑文は「人の食(禄)を食む者は人の事に死す」と読み、「徳川幕臣が徳川のために死ぬのは本望である」との意味だ。これが福沢の思想と相容れない。
●福沢諭吉は『学問のすすめ』冒頭で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と高らかに宣言したが、米国独立宣言に倣ったというこの「人」は明らかに「個人」を指している。それは咸臨丸乗組員の慰霊のため「徳川の為に死ぬのは本望だ」との碑文を撰した榎本武揚や清水次郎長らが懐く「人」とはまったく別物であった。この「個人」という考えが如何に異様な思想であるか、長谷川三千子さんが『月刊日本』六月号で鋭く指摘しているが、福沢にはまったく違和感がなく、むしろ学ぶべき手本に思えたのだ。こうした外来の異様な思想に基づき形成された日本の近代化が日本人の心を深く冒したのは当然である。