みょうがの旅    索引 

                     

 昭和二十年八月十五日正午の御放送直後の一瞬 
            (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)8月1日第387号) 

●歴史的な事件は誰にとっても大きな衝撃であるからこそ、「歴史的」という形容が付される。特に、事件の現場に居合わせた人々にとっては、その後の生き方を左右するような深刻な影響を受けるのが普通である。
 しかし、歴史的な事件がもつ深刻かつ甚大な影響は現場に居合わせた人々にもすぐには顕われず、また自覚もされない場合がある。そして、ある事件がもつ歴史的な意味については事件の直後には明らかでないことも、珍しくない。事件の歴史的な意味が判然とするには一定の時間が必要で、時間の経過と共に、その意味がおのずから明らかになるということは、われわれがしばしば経験することである。
 現在の日本にとって歴史的な事件の筆頭に位置すべきものが「大東亜戦争の敗北」であることは誰しも認めるところである。だが、その歴史的な意味については、当事の人々によって自覚されることも、またその後の時間の経過と共におのずから明らかになることも、なかった。
 日本が国力のすべてを挙げて闘った大東亜戦争の敗北を認めて、将兵にも非戦闘員にも日本人全員に「終戦」を命じたのが昭和天皇の「終戦の詔書」であったことは歴史的事実であり、誰の目にも明らかである。しかしながら、昭和天皇が「終戦の詔書」に込められた恐ろしい意味は戦後、七〇年に垂んとする今日においてさえ、明らかになっていない。
●昭和二十年八月十五日正午を期して「終戦の詔書」はラジオで放送された。電波受信状態も悪く、雑音も混じっていたために、正確に放送を聴いた者はほとんどいなかったと言われている。ただ、「天皇陛下が終戦を命じられた」という意味だけは誰もが感じ取ったのだった。
 その瞬間、時間が突然止まってしまったような、日本全土が真っ白になって凍り付いたかのような、不可思議・不思量のあることが起こった。
 事実、日本の歴史はその瞬間に停止してしまったのだ。
 一体それが何であったのか。人々は分からぬまま、また分からなければならぬとも気づかないまま、ともかく、戦争が終わったことだけ人々は知ったのである。
●その後の反応は区々だった。しかし、十人十色と言ったのでは乱暴にすぎる。多くの人々はホッと安堵の気持ちを抱いたと伝えられているが、無理からぬところであろう。ホッと安堵した人々は「終戦の詔書」にて昭和天皇が

 宜(よろ)シク挙国一家(きよこくいつか)子孫(しそん)相伝(あいつた)ヘ確(かた)ク神州(しんしゆう)ノ不滅(ふめつ)ヲ信(しん)シ任重(にんおも)クシテ道遠(みちとお)キヲ念(おも)ヒ総力ヲ(そうりよく)将来ノ(しようらい)建設(けんせつ)ニ傾ケ(かたむ)道義(どうぎ)ヲ篤(あつ)クシ志操(しそう)ヲ鞏(かた)クシ誓テ(ちかつ)国体(こくたい)ノ精華(せいか)ヲ発揚(はつよう)シ世界(せかい)ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レザラムコトヲ期(き)スヘシ。

と呼びかけられた御言葉の促すところに従って、明るい未来へ向けて一歩を踏み出したのである。
 日本の歴史が凍り付いてしまったことを正確に感じ取ったごく少数の人々もいた。その中の一部の人は、日本の歴史が凍り付いて停止してしまったからには自分の命ももはやこれまでだと考えて、従容として自決した。
 また、日本の歴史が凍り付いたことに気づくと同時に、自らの精神をも凍り付かせてしまった人もいた。さらに、一瞬の空白の後にいきなり絶望の深淵に投げこまれ悶え苦しんだ人もいる。あるいは、あってはならないことが起こったと感じて、憤怒に駆られた人もあった。
 だが、あの瞬間に本当に起こったのは何だったのか。そのとき、人類文明史上で一度も起きたことのない「奇跡」が起きていた。そんなことが起きていたとは、今の今まで誰も気づかなかったのだ。誰も気づかなかったその奇跡を六八年の歳月の後に初めて解き明かしてくれたのが長谷川三千子『神敗れたまはず ◉ 昭和二十年八月十五日正午』(平成二五年七月一〇日、中央公論新社刊)である。
●かつて長谷川三千子さんは平成一二年四月号の雑誌『正論』誌上に、今回公刊された本の書名と同じ表題にて、「神やぶれたまはず」と題して「折口信夫論」を書いたことがある。今を去る一三年前のことである。その論考の結びにおいて、実はすでに長谷川さんはこう記している。

 われわれは、信うすくして奇跡を呼びえなかつたのでもなければ、敗戦によつて神を失つたのでもない。われわれは、まさに敗戦の瞬間に奇跡を得、神を得たのである。そこから出発する以外に、われわれの出発点といふものはない。……いま私が感謝をこめて折口氏に送り届けたい言葉は、ひとこと「神やぶれたまはず」である。

 ここですでに、長谷川さんは「われわれは、まさに敗戦の瞬間に奇跡を得、神を得たのである」と断言している。当時、藤原源太郎から薦められてこの論考を読んだ私は感動置く能わざるという心境に陥り、言葉に為しがたいその心境を長谷川さんが発明した表題をそっくり拝借して、みち巻頭言に誌したことがある(九三号、平成一二年四月一日号巻頭言「神敗れたまはず」http://michi01.com/tendoh/93ktg26600401.html)。
 長谷川三千子さんの『バベルの謎』(平成八年、中央公論社)を読んでからというもの、長谷川さんが書かれるものには目を通して、いつも「よくぞ書いて下さった」という感謝の気持ちを私は忘れたことはない。長谷川さんの数ある著作の中で「神敗れたまはず」は最高の傑作であると今も信じて疑わない。
 長谷川さんの「神やぶれたまはず」という論考は折口信夫=釈迢空が敗戦の直後に発表した「神やぶれたまふ」と題された長歌に対する「奇妙で複雑な感動」をきっかけとして生まれた労作である。長谷川さんは慎みあるたおやかな大和撫子であるから、他人に対して棘のあるような言葉遣いを決してなさらないので、あえて私があらずもがなの蛇足を費やせば、「奇妙で複雑な感動」とともに「ある違和感」を長谷川さんは感じたに相違ない。
●歌人釈迢空の「神敗れたまふ」なる長歌は次のように始まる。

神こゝに 敗れたまひぬ──。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内(ウチ)つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ──。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蠅(ハヘ)の集(タカ)り 群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に──人は臥(コ)い臥(フ)し
青人草 すべて色なし──。

村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)──
ひたすらに青みわたれど
たゞ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ──。

 この歌に対して、長谷川さんはほとんど最大級の讃辞を惜しまずに、こう言っている。

絶望の極まつた末の美しさ、酸鼻のきはみのはてに現はれる森と静まりかへつた美しさといふものがある。

 そして、歌人釈迢空のこの類い稀に美しい長歌は、折口信夫が紛れもなく昭和二十年八月十五日正午の、「あのシーンとした国民の心の一瞬」を感じ取って、そのかたちを「これらの詩句のうちにくつきりと灼きつけ」たからこそ、「奇妙で複雑な感動」を長谷川さんに呼び起こしたのである。
 すなわち、折口信夫は「昭和二十年八月十五日正午のあのシーンとした国民の心の一瞬」に気づいた一人だったのである。
 しかしながら、せっかくあの一瞬に気づきながら、歌人釈迢空として折口信夫は「神敗れたまふ」と速断してしまう。それは誤りであった。それが、長谷川さんが感じたであろう違和感の正体である。そのとき「神敗れたまふ」と見えたのは私情に打ちひしがれていた折口の皮相なる誤解であった。本当は「神敗れたまふ」どころか、日本の歴史が止まってしまったかのように見えたあの一瞬に、人類史上で初めての奇跡がわが日本において起こっていたのだ。それに長谷川さんは気づいていたのである。
 では、その「奇跡」とは何だったのか。あの日本の歴史が停止し完全に空白になった一瞬の意味を誰にも分かるように説明することは長谷川さんにとって相当の困難だったに違いない。奇跡が起こったと言う長谷川さんの言に耳を傾ける者がほとんどいなかったということまでも推測させる。
●そんな長谷川さんの発見が決して誤りでないと激励するような一冊の本があったのだ。それが評論家桶谷秀昭著『昭和精神史』(平成四年、文藝春秋)である。単行本『神敗れたまはず』はこの桶谷秀昭『昭和精神史』に対する論考として始まったのだと長谷川さんは「あとがき」に書いている。
 当初これは「『昭和精神史』考」として書かれるはずのものであつた。一読して、この『昭和精神史』といふ本の魅力にとりつかれてしまつた私は、その魅力の源泉が、なにか或る不可能な試みを目指してゐるところにあると直感し、その「不可能な試み」のかたちを明らかにしようと、「『昭和精神史』考」を雑誌『正論』に連載しはじめたのである。
●桶谷秀昭『昭和精神史』の魅力とは何か。それは、それは桶谷秀昭が河上徹太郎の次の文章を引いていることに示唆されている。

 国民の心を、名も形もなく、たゞ在り場所をはつきり抑へねばならない。幸ひ我々はその瞬間を持つた。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違ひはなかつた。又、あの一瞬の如き瞬間を我々国民が曽て持つたか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。たゞ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起したいのだ。今日既に我々はあの時の気持と何と隔りが出来たことだらう!
(長谷川五〇頁より孫引)

 つまり、桶谷秀昭もまた、河上徹太郎の言う「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」に向き合おうとして、悪戦苦闘した人だったのである。だからこそ、長谷川さんは一読直ちに魅力に取り憑かれたのではあったが、桶谷秀昭のそうした「昭和精神史」の試み自体が「不可能な試み」であることも、長谷川さんには判ったのである。
 ならば、その試みがなにゆえに不可能であるのか、それを解き明かそうと「『昭和精神史』考」の連載を始めたのであった。しかし、その連載も挫折する。理由は「当初の目論見がはづれたといふのではない。むしろ、その明らかにすべきものの途方もない大きさが見えてくるにつれて、その全体を掘り起こすための準備が、いまの自分にはたうていととのつてゐない、といふことが分つてしまつた」からであると、長谷川さんは洩らしている。
●『神敗れたまはず ◉ 昭和二十年八月十五日正午』という本の内容が示すとおり、「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」に気づき、それについて書かれた作品は、桶谷秀昭『昭和精神史』の外にも少数ではあるが存在した。それを長谷川さんの本の目次順に挙げると、こうなる。

橋川文三「『戦争体験』論の意味」
太宰治「トカトントン」
伊東静雄日記八月三十一日條
磯田光一『戦後史の空間』
吉本隆明『高村光太郎』
三島由紀夫『英霊の聲』

 長谷川さんはこれらそれぞれについて、実に満遍なく行き届いた解説を行なって、あの一瞬と深い関わりを持った人たちが、どのように対処したかを明らかにしている。
 その一つひとつについて述べることは、すでに紙幅も尽きようとしている今は不可能であるが、桶谷秀昭の場合だけを紹介しておきたい。
●桶谷秀昭があの瞬間に何を感じどう対処したかは、実は『昭和精神史』ではなく『土着と情況』(昭和四二年)の中に書かれている。

 八月十五日正午の天皇の降伏宣言は、わたしにとって、日本の歴史と神話の信仰の崩壊であった。天皇はわたしにとって死んだ。不滅という観念がみずからを死滅と宣言する異様な出来事だった。(長谷川九七~九八頁より孫引)

 これについて、長谷川さんは充分な理解を示している。

 まさにこれこそは「神の死」の体験にほかならない。しかもそれは、桶谷少年にとつて、自己自身の<死よりも悪い死> ── 自らの「生死に絶対の価値観」 を奪い去られるといふ体験── なのであつた。まさしく「神の死の怖ろしい残酷な実感」といふ言葉で言ひあらはすほかはない体験だつたと言ふべきであらう。 (九八頁)

 そして、先に挙げた橋川文三以下のいずれもが、「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」を各人なりに体験しているのである。さらに言えば、伊東静雄が八月三一日の日記に記したように、

 十五日陛下の御放送を拝した直後。 太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらない。 (一〇一頁)

という、「絶望的な違和感」を誰しもが感じていたのである。天は裂け地震(ないふ)りこの世の末が来るべきなのに、あたりはただ静まりかえっているばかりなのである。
 だが、「絶望的な違和感」を感じた者が挙って見落としていたものがある。それは陛下が「終戦の詔書」に籠められた御決意であった。
 ところが、その御決意は、敵である連合国側には絶対に気取られてはならない性格のものであったがゆえに、「終戦の詔書」の文言からは慎重の上にも慎重を期して巧妙に隠されたのだ。だから「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」に気づいた者の誰しも、昭和天皇の御宸襟の深くにそのような御決意があったなどということは、想像だにしえなかった。