みょうがの旅    索引 

                    

 「耐ヘ難キヲ耐へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」 
        (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)9月1日第388号) 

●昭和二十年八月十五日正午を期してラジオから流れた玉音放送はほとんど聴き取れなかったと言われるが、ただ「……堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ……」という一節だけは、不思議にも多くの人の記憶に残って語り継がれ、当時を知らない後世の者にも伝えられてきた。天皇陛下の玉音放送によって「終戦の詔書」が伝えられたとき、日本人のほとんどがこの一節を、特に深く受け止めたからではないかと思われる。
 そして万感迫る思いのその果てに、かかる苦衷を洩らされた陛下の御宸襟をお察しして、詳しい事情はまったく分からないでも、天皇陛下が「堪へ難きを堪へ忍び難きを忍び」とおっしゃっているからには、臣下たるわれわれもまた、これから先どんな苦難が待ち受けていようとも、終戦を命じられた御言葉に従い従容として生きていこうと、言葉にならざる思いを胸底に抱いたのではなかろうか。すなわち、それは大東亜戦争を戦った兵士たちと同じ承詔必勤の姿であった。
●神洲不滅を謳い若い命の犠牲を当然として要求してきたわが国が敗北するなどということは、あってはならないことではあった。だが、日本は敗れた。あってはならないことが起こったのだ。この異様さに気づいた者はごく少数であったが、その少数の人々を採り上げ異様さに気づいた者のそれぞれの反応を長谷川三千子『神やぶれたまはず』はたどっている。
「神 やぶれたまふ」と詠んだ折口信夫から、「弥栄」を唱え整然と割腹自殺して果てた大東塾顧問影山庄平と一三名の大東塾生、橋川文三、桶谷秀昭、河上徹太郎、佐藤卓己、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫まで、それぞれの「異様な体験」に長谷川さんは充分な理解を示している。そのうえで、鋭敏な彼らさえ、「ある奇跡」があの一瞬に起こっていたことに気づかなかったと指摘する。その「ある奇跡」とは、昭和天皇が御自身を犠牲にするという御聖断であった。
●すでに昭和二〇年七月二六日に日本に伝えられていたポツダム宣言を受諾するか否か、八月六日の広島への原爆投下、八月八日のソ連参戦、八月九日の長崎への原爆投下を受けて、九日の午後に閣僚会議が開かれるも賛否二つに割れて決着がつかず、ついに深夜に御前会議が開かれて天皇陛下の御聖断を仰ぐことになった。この「御聖断を仰ぐ」ということが如何に異様な事態であるかを、長谷川さんは書いている。

 たしかに、帝国憲法の第一条には、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、第四条にも、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ……」とあつて、あたかも天皇が自らの意志によつてすべてを決定する主権者と規定されてゐるごとくにも見える。しかし、実際の帝国憲法の運用においては、近代日本の天皇制は「統治すれども政治せず」の原則を貫いてきたのであり、昭和天皇もこの伝統を厳守してこられた。議会や閣議の決定に対して拒否権(ベトー)を行使するどころではない。表立つてご自身の意見を、意見として発言することについてすら、陛下はかくも慎重でいらしたのである。その意味では、天皇ご自身もまた、その「国体のジレンマ」とは別の、もう一つのジレンマ──皇祖皇宗の遺訓のとほり、民の命を一刻も早く救ひたいといふお気持ちと、明治大帝以来の伝統となつてきた立憲主義との板ばさみ──の内に耐へがたい日々をすごされてゐたと言へよう。(二六一~二六二頁)

 だから、国策について閣議決定が不可能となり、天皇の御聖断を仰ぐなどということは、前代未聞の異様な事態なのであって、それはすなわちわが国の近代天皇制の否定あるいは立憲君主制の否定にほかならない。長谷川さんが「立憲君主制の固い壁に一本の亀裂が走つた」と書いているのはそのためである。
●しかし同時に、ポツダム宣言を受諾するか否かの決定は、閣議では絶対に為しえない性格のものであった。なぜなら、その決定は天皇陛下の命を敵に委ねることを意味したからである。
 長谷川さんはこうも書いている。

 しかしもう一つ、それとはまつたく別次元の問題として、この戦争終結の判断は、なんとしても閣議によつて決定することが不可能な事柄であり、これはどうしても天皇ご自身によつて下されなければならない決断であつた。さきほどから見てきたとほり、ポツダム宣言を受諾するといふことは、すなはち天皇陛下の命を敵にゆだねるといふことを意味する。そんな決定を、多数決であれ、閣議決定で行なふなどといふことは不可能なことなのである。(二六三頁、傍線天童)

●昭和二〇年八月九日深夜の御前会議で天皇陛下の御聖断はどのようにして下されたのか。長谷川さんは迫水久常内閣書記官長の回想を引用している。

 ……八月九日の夜の十一時四十五分から、宮中の防空壕の中で御前会議が開かれました。……総理大臣からの話に応じて、各大臣がそれぞれに発言しました。結果は、……賛否が三対三にわかれたのであります。このときに鈴木総理大臣は起立して、陛下に、「お聞きの通りでございます。どうぞ畏れ多いことでございますが、思し召しのほどをお示し下さいませ」とお願い申し上げました。天皇陛下は、椅子に腰掛けていらっしゃたまま体を前におのり出しになるようにしてお答えになりました。
 陛下は、「それならば、意見を言うが、みなのものも自分の意見に賛成してほしい」と前置きなされまして、「自分の意見は東郷外務大臣の申したことに賛成である」と仰有いました。
 私はそのときの気持ちを永久に忘れることができないでしょう。胸が押しつぶされるような感じがしまして、目から涙がほとばしりでました。部屋にはたちまち、すすり泣きの声がおこりましたが、すぐにそれは号泣にかわりました。……陛下は白い手袋をはめられたまま親指を以て、しきりに眼鏡をぬぐって居られましたが、ついに両方の頬をしきりにお手を以てお拭いになりました。
 ……本当に自分の胸にあることを、どう言ったらいいかとお考えになりながら、本当にもう、とぎれとぎれ、抑揚も乱れてお話になられたのであります。
「このまま戦争を本土で続ければ日本は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない」
 ……もう本当にみなはただ泣くだけでした。やがて陛下のお言葉が終わって鈴木総理大臣が立って陛下に御退席をお願いしました。その後われわれは会議を続けまして、ポツダム宣言を受諾す、という電報を連合国に打ったのであります。(二六四~二六五頁)

●御前会議参加者が伝える昭和天皇のお言葉は六八年が経った今もわれわれの胸に重く深く浸みとおる。昭和天皇はここで自らの命を投げ出されたのである。昭和天皇が終戦に際して詠まれた御製(当時は誰にも知られなかったが、昭和四三年出版の元侍従木下道雄著『宮中見聞録』で明らかになった)にも、

爆撃にたふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも

身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて

と、自らの死を覚悟して終戦の御決断を下されたことが示されている。
 御前会議の模様も陛下の御製も国民は知らなかった。だが、天皇陛下が「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」と言われたことで、極少数の者を除いてほとんどの国民がすべて了解したのだ。
●長谷川さんは『神やぶれたまはず』を次のように結んでいる。

 歴史上の事実として、本土決戦は行なはれず、天皇は処刑されなかつた。しかし、昭和二十年八月のある一瞬──ほんの一瞬──日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはつてゐたのである。
 ……われわれは確かにその瞬間をもつた。そしてそれは、橋川氏の言ふとほり「イエスの死にあたる意味」をもつ瞬間であつた。折口信夫は、「神 やぶれたまふ」と言つた。しかし、イエスの死によつてキリスト教の神が敗れたわけではないとすれば、われわれの神も、決して敗れはしなかつた。大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである。(二八二頁)

 長谷川三千子さんが言うように本当の意味で神を得たからには、一つの戦争において一敗地に塗れたからとて、何ほどのことがあろうか。われわれはただ「神州ノ不滅ヲ信シ……道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期ス」(終戦の詔書)のみである。