みょうがの旅    索引 

                      

 近代の欠陥とジレンマを超克された御聖断 
          (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)9月15日発行第389号) 

●長谷川三千子『神やぶれたまはず』の核心は、大東亜戦争敗北のあの一瞬に鋭敏多感な少年たちが自死と引換に神風が吹く奇跡を待望したのに対して、昭和天皇がさらなる国民の死を防ぐため断乎として終戦を決断された事実を詳細にたどっている点にある。そしてそのために天皇が御自身の死をも覚悟されたことを明らかにし、これこそが神風以上の、まさに「奇跡」と呼ぶに相応しい稀有の事態ではなかったかと長谷川三千子さんは問うのである。
 鋭敏な少年が自己の死を以て神風の吹くことを待望した例として、長谷川さんはこう書いている。

  吉本隆明氏もまた、「神風はつひに吹かなかつた」といふことを、「名状できない悲しみ」とともに受け取つた人間の一人である。氏が戦後、児玉誉士夫の講演を聞きに行つて、「米軍が日本に侵攻してきた時に日本人はみんな死んでいて焦土にひゅうひゅうと風が吹き渡っているのを見たら」といふ言葉に感心したのも、そのひゆうひゆうと吹き渡る風こそが本当の「神風」であり、それがつひに吹かなかつたことを悲しむ人間がそこにもう一人居ることを知つたからだつたに違ひない。
 『英霊の聲』のあとがきの「神の死の怖ろしい残酷な実感」といふ言葉は、三島由紀夫もまたこの二人と同じ体験をもつたことを示してゐる。しかし、実はこのあとがきの内には、それ以上にはつきりと、彼の戦争体験の核心が、かうした奇跡の待望にあつたことが告白されてゐるのである。(二〇四頁)

 三島由紀夫は日本人がみな死に絶え、日本全土が焦土と化すことを待ちわび、その時を「至福」の一夜と捉えていた。それが三島由紀夫の戦争体験の核心であったことも、長谷川さんは指摘している。

 すなはち、三島由紀夫は間違ひなく、桶谷少年と同じく、「この日常世界は一変し、わたしたち日本人のいのちを、永遠に燃えあがらせる焦土と化す」日を待ちわびてゐた。それが彼の待ちわびてゐた「奇跡」であり、「神風」であり「至福」の一夜であつた。ところが、それは彼の手をのがれ、二度とふたたび訪れる可能性はなくなつた。
 それを奪つたのは、ほかならぬ昭和天皇ご自身である。昭和二十年八月十五日の、戦争終結の宣言によつて、天皇はその夢をたたきつぶしたのである。(二〇五頁)

●三島由紀夫の夢をこのように適確に指摘したのは、長谷川さんが初めてではなかろうか。思えば、それは異様な夢であると言わざるをえない。「この日常世界は一変し、わたしたち日本人のいのちを、永遠に燃えあがらせる焦土と化す」とは、日本人がすべて死に絶えて日本列島の全土が焦土となるということである。日本に侵攻した敵軍は人っ子一人いない焦土に立って飄々たる風に吹かれながら茫然自失、勝利の苦渋を噛みしめる……。
 自ら死に趣いた少年たちは死して後「日本人に勝とうと思ったらこうなるのだ。思い知ったか!」とつぶやいて溜飲を下げることだろう。
 確かに、明治一五年下賜の軍人勅諭に「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽し」と定めて久しく、また大東亜戦争直前の戦陣訓で「常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に応ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を遺すこと勿れ」と東條英機は訓令したが、態々言われるまでもなく、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」るの覚悟は、日本人誰しもが抱いていた心得だった。
 つまり、日本人のすべてに死を強要してやっと成り立っていたのが、近代日本という国家だった。
 それを承知のうえで、強要されてもそれを強要とせず、自らの意志で撰び取って覚悟を固めたのがわが先人たちである。無理に無理を重ね、ようやく跛行しながらも国家としての体を繕い保っていたのがわが日本だった。
 まして、日々刻々と深まる国家存亡の危機に、純情な少年たちがその至情のまま自らの死を覚悟したとしても、それは自然の勢いだったと言えよう。
 そこまでは、よい。しかし、その死とともに日本の亡国を望んだとすれば、とんでもない思い上がりであり、不遜傲慢の極みと断じざるをえない。
 思ってもみよ。天皇陛下のみならず、為政者の任にある何人と雖も、若者の望むままに、かかる増上慢の望みを叶えてやるため日本を亡国の道に委ねるなどという決断ができるはずもない。早くに社稷と國體を喪失した支那においてさえ、「楚三戸」という言葉がある。まして、わが神国においてをや。
 少年の至情から出た願望とはいえ、自らの死とともに日本の焦土化を願うのは、あってはならないことである。そうした増上慢を叩き潰すのが大人の役目だったはずである。
 だが大人たちには、そうした役目を担うだけの大義がもはや失われてしまっていた。少年に死を命ずることこそが大義であって、「生きよ」と命ずる選択肢を日本はもたなかった。ここに近代日本が国家としてもたざるを得なかった最大の欠陥がある。
●一方で、軍人勅諭に「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある」と規定するとおり、わが軍の統帥権は天皇陛下に属していた。これを字義どおりに解釈すれば、日本軍のすべての行動は天皇陛下の命令に従って行なわれたことになる。事実、軍の命令は天皇の名をもって下された。
 それのみではない。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第四条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とあるように、天皇は自らの意志によって国事のすべてを決定する主権者であるかのように、規定されていたのである。
 だが現実には、天皇陛下はほとんどご自分の意見を言われず、軍や政府の決定を追認されるだけであったことは、今日明らかになっている。
 にもかかわらず、日本が降伏するとなれば、日本軍の統帥権者として天皇が責任を追及されることは免れない。
 しかしながら、天皇陛下に戦争責任が及び処断されるなどということは、日本国民にとって断じて認められないことだった。それだけは、何としても守り通さなければならない、ギリギリ最後の一線だった。
●日本が降伏に際し直面したこうしたジレンマについて、長谷川さんは次のように述べている。

  降伏すれば自分たちの命は助かるかもしれないが、それは敵に天皇陛下の首をさし出すことにほかならない──これは国体思想云々の以前に人間としての尊厳を問はれる選択と言ふべきであらう。誰かを身代りにさし出すことによつて自分の命が助かる道を選ぶといふことは、それ自体が∧卑怯者の道∨を選ぶといふことである。たとへその「誰か」が、取るに足らないやうな人間であつたとしても、そのやうにして生き延びた人間の生には、その後の一生のあひだ、卑怯と卑劣の汚辱がこびりついたまゝとなる。まして、それが天皇陛下の生命とひきかへにあがなわれるといふことになれば、そのことによつて生き延びた日本国民は、卑怯だのといふより、もはや端的に日本国民ではなくなつてゐる、と言ふべきであらう。……
  ところが一方、「蒼生安寧」を政治の第一原理として神代の昔から引きつがれてゐる天皇陛下にとつては、一刻も早く降伏を実現することが「国体」にかなつた道だといふことになる。大東亜戦争はいまや「勇武」を云々しうる「戦争」の場ではなく、単なる、敵軍による日本国民の大量虐殺の場と化してしまつた。そこから日本国民を救ひ出すことこそが、真の国体護持にほかならない。(二四五~二四六頁)

●つまり、日本はポツダム宣言を突き付けられたとき、それを受諾することもならず、拒否することもならず、という絶対的なジレンマに置かれていたのである。
 長谷川三千子さんは言う。

  かくして、大東亜戦争の末期、わが国の天皇は国民を救ふために命を投げ出す覚悟をかため、国民は戦ひ抜く覚悟を固めてゐた。すなはち天皇は一刻も早い降伏を望まれ、国民の立場からは、降伏はありえない選択であつた。(二四七頁)

  この絶対的ジレンマに決断を下す任にあるのは当時の政府だったが、元より天皇の臣下である大臣たちに天皇の身を敵に差し出すなどという決断が下せるはずもなく、最後には御聖断を仰ぐ事態に立ち至った。このとき昭和天皇は「それならば、意見を言うが、みなのもの自分の意見に賛成してほしい」と前置きされて決断を下されたのである。それは日本が近代国家として抱えていた欠陥を天皇が超克し、また同時に、敗戦に際してのジレンマをも解決された一瞬であった。その決断が御自身の命と引換だったことを、われわれはゆめ忘れてはならない。