みょうがの旅    索引 

                      

 伏見宮人脈探求に向けて 
   (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)10月15日第391号) 

●月照(一八一三~五八)に興味をもっている。安政の大獄により追われる身となり西郷南洲とともに薩摩錦江湾で入水自殺を図って果てたとされる僧である。西郷は一命を取り留め、維新変革の枢軸にあって倒幕を指揮、後に西南の役で斃れるも、維新の功労者としての評価は揺るがないが、さて月照の果たした役割は何だったか、今一つ判然としない。
 落合莞爾さんの教示によって伏見宮朝彦親王や徳川慶喜公が維新変革に果たした役割を再考する必要を感じて久しくなる。渋沢栄一『徳川慶喜公伝』の方は一気に読み通すわけにもいかず時々函から出しては拾い読みしているが、徳田武『朝彦親王伝』(平成二三年、勉誠出版)は読み終えた。
 それで月照の行動がある程度は分かってきたのであるが、同時に新たな疑問が湧いてきた。僧月照は伏見宮配下で非人ネットワーク差配を任されていたのではないか、という疑問である。
●西洋近代文明をお手本として、彼らが主張する世界基準に倣うことを歴史の進化発展とする「発展史観」の謬見に少しでも疑問を持つならば、維新変革の推進者よりも、未曽有の外患に対しわが國體を守ることに腐心した人々の事跡をこそ顕彰しなければならない。すなわち、「公武合体路線」を推進した人々である。時々刻々に変化する時局に当たるべき当事者としてもっとも見事な出処進退を貫いたのが徳川慶喜公であったことは、一橋家家人渋沢栄一翁の著わした慶喜公伝を繙けば自ずから明らかとなろう。
 だが、維新における越前松平春嶽公の功績などは不当に低いのではないか。英明なる春嶽公は横浜が開港するやいなや下級藩士岡倉勘右衛門を派遣し、交易商館(コムパニイー)「石川屋」を設立して海外との接触に当たらせた。春嶽公の気概がいかほどのものであったか、武士身分を捨ててまで藩命に従った勘右衛門の動きと、その長男天心岡倉覚三の西洋文明への対決姿勢を見れば、わずかに偲ぶことができる。
 これまでの維新史観では薩長土肥の軽輩たちがにわかに力を得て維新回天の功業を成し遂げたというおとぎ話のような歴史が巷間に流通しているが、大人になれば、そんな莫迦な話はないと誰しも気づくのが普通である。
●戦乱の世に「天下布武」を掲げて日本全国の統一を果たした英雄が織田信長であったというおとぎ話も巷間に流布している。信長と秀吉と家康が類い稀な英傑であったことは事実であろうが、ただそれだけで元和偃武がなったとは考えられない。
 おとぎ話的信長像に敢然と立ち向かったのが、大学で数学を専攻して朝日カルチャーセンターで古文書学を受講しながら独学で戦国史を研究した市民史家の立花京子氏であったことは快挙である。
 立花京子の著書『信長と十字架──天下布武の真実を問う』(平成一六年、集英社新書)は、若き信長に着目して「天下布武」の大義を与え陰に陽に嚮導したのが大儒者清原家の清原枝賢(しげかた)と吉田神道家の吉田兼右(かねみぎ)であったこと、そしてその清原・吉田人脈が早くからイエズス会の工作によってキリシタンに染まっていたという驚愕の真実を明らかにした。
 徳川幕府によって神道の総元締めの任を与えられた吉田神道が実はキリシタンだったという歴史の真実は、誰にしてもにわかには信じがたいに違いない。果たせるかな、立花京子氏の研究は歴史学者や歴史ライターたちにより「陰謀史観」なるレッテルを貼られて総スカンの憂き目に遭っている。だが、まさに瞠目すべき画期的な研究である。
●かくて歴史の真実はおとぎ話を疑う真摯な研究者によって少しづつ自らの姿を明らかにして行くのだが、近世・近代において天皇と宮家、摂関家の果たした役割はほとんど明らかにされていない。まるで時代の主人公が一変しその役割は終わったかのように等閑にされているのである。
 先に私は長谷川三千子さんの近著に導かれて、大東亜戦争の終結に際して昭和天皇が示された御聖断の深い意味に改めて気づくことを得た。長谷川さんは「そのとき、人類の歴史でも稀な奇跡が起こり、われわれは新たな神を得たのだ」とまで断言している。
 この一事を以てしても明らかなように、天皇の御意向とそれを体した宮家の振舞い、そして天皇側近摂関清華家の役割を抜きにして、わが国の真実の歴史は語れないのだ。特に、国家存亡の秋においてはなおさらである。
 ただ、宮中のことを不用意に明るみに出して軽々に論うことが憚られるのは当然であって、われわれ一般庶民としては厳に慎むべきことである。
 しかしながら、國體の根幹に関わることについては別であろう。おとぎ話的謬見で覆い尽くされて國體の真実が隠されているような事態は、心ある者の看過しうるところではない。
 この事にいち早く気づいた落合莞爾さんが「堀川政略説」と「大塔政略説」とを引っさげおとぎ話的「教科書史観」の克服に挺身しているのも、今一段とわが國體が危機に曝されているという認識が落合氏にあるからである。
 とはいえ、落合さんが史料なきところを自らの洞察によって明らかにしたという壮大な歴史観に自ら何の検証も洞察も労さずしてにわかに賛同するのは却って失礼の謗りを免れまい。
 そこで、幕末維新変革における伏見宮朝彦親王の重大な役割を落合さんから教示された私としては、せめて伏見宮人脈の一端を具体的に拾い出して、学恩に報いたいと願うものである。
●迫り来る外国勢力による國體の危機を察せられた光格天皇が役行者小角に「神変大菩薩」なる諡号を寛政一一年(一七九九)に勅許された史実が示す天皇のご意向とは何か?
 それは世界の動きを一瞥すれば自然と明らかだ。今日風にいえば、「フランスの春」ともいうべきフランス革命によりフランスの王政が転覆したのが一〇年前である。それは欧州一国の国内事件ではなく、世界規模で政体変革を目論むフリーメーソン革命が初めて牙を剥き出しにした、人類史の大事件であった。
 この世界的政体大変革の波に対して「上下心を一にして対処せよ」というのが「神変大菩薩」なる諡を勅許された光格天皇の御真意である。
 それは直接的には山の民、すなわち幕藩体制から洩れた化外の民に対する呼びかけである。なぜなら、神山霊山にして役行者を祀らない山はほとんどないことからも分かるように、山の民たちは役行者を自分たちの頭領として永く尊崇し、信仰してきたからである。
●こうして国難に際しての山の民への呼びかけは「神変大菩薩号」の賜与を通して光格天皇が自ら行なわれたのである。同時に考えるべきは寺院勢力に対する呼びかけである。
 近代西洋思想の糟粕に毒されたわれわれは寺院と聞けば宗教施設であり、世俗の活動と切り離された浮き世離れした所だと錯覚しているが、まったくそれは思い違いである。寺院とは宗教施設であると同時に教育施設であり、工芸・芸能・建築・醸造・製薬・医療・金融などを含む一大企業体であったことは西洋キリスト教大寺院・修道院の例を見ても明らかである。
 寺院は出家した僧侶だけで成り立っていたわけではない。寺院や僧侶を支える様々な人々がそこに働いていたのである。神社寺院は大抵大荘園の領主であって、時代と共に武士階級に蚕食されたとはいえ、荘園経営に当たった荘官やその家人もいたはずなのである。
 天皇や宮さまが出家して寺院に入るということ、つまり寺院側からいえば門跡寺院となるということは、天皇との直接的繋がりができることを意味するのである。
●もう一つ、重要な社会勢力がある。いわゆる裏の勢力である。陽あれば陰があるように、表があれば裏があり、両者相俟って社会の全体を為すというのが日本に住む大人の常識であるが、表があたかもなきが如くに意図的に裏社会を抹殺し占領者たる外国勢力に差し出しているのが昨今のわが国の惨状である。
 裏の勢力は時代により様々な名称で呼ばれたり呼ばれなかったりするが、中世以来もっとも一般的に用いられた名称は「非人」ではなかろうか。
 網野善彦氏はこの非人の聖域(アジール)としての寺社の役割に注目した歴史家と記憶するが(記憶違いかも知れない)、網野非人史観の盲点はその聖域が政体権力からの聖域ではあっても、國體からの聖域ではありえなかったことを見逃している点にある。なぜなら、聖域そのものともいえる國體からの逃避所(アジール)などわが日本列島にあり得るはずもなく、聖域性を担保するのが一時的には寺院のもつ宗教性であったとしても、やがていつしか階層的に天皇家へと繋がり却って逃避所の聖域性を担保したのが天皇の聖性であったことを、網野氏は認めたくなかったからであろう。