みょうがの旅    索引 

                      

 「ええじゃないか運動」の仕掛人 
       (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)11月1日第392号) 

●京都の音羽山清水寺成就院住職月照(号忍向)が伏見宮朝彦親王と親近するきっかけは熊千代(朝彦親王幼名)が南都興福寺一乗院門主に補せられたことだった。興福寺という巨大寺院複合施設の寺務全般を統括する別当職を司った一乗院は、宮様が代々の門主を務める門跡寺院の一つである。
 興福寺は法相宗大本山で、一乗院が法相宗全寺院を取り締まる御支配本坊であったから、真言宗と法相宗を兼学する清水寺はその支配下に属することになる。そこで、清水寺の寺務全般を統括する成就院の住職として、忍向は一乗院門主新任をお祝いする御挨拶に朝彦親王の実家である伏見宮を訪ねたのである。
 徳田武『朝彦親王伝』(平成二三年、勉誠出版)は早くも「第一章出生の秘密と幼少期」(二頁下)に朝彦親王と忍向の出会いを誌している。

 一乗院門主になると、早速始まるのが京都清水寺の住職忍向との関係である。忍向とは、後の勤王僧として有名な月照(雅号)である。月照が西郷隆盛とともに安政五年(一八五八)十一月十六日、西海に入水し、月照だけが絶命した事は、あまりにも著名である。この忍向が、天保八年十月二十日、熊千代(十四歳)の御里坊(実家)である伏見宮邸に恐悦(御機嫌伺い)のため参殿している事を、友松圓諦が『成就院日記』(『月照』一九七五年五月、音羽山清水寺発行。三五八頁。成就院は、清水寺の本坊)に拠って記している。時に忍向は、十一年上の二十五歳である。なぜ忍向がわざわざ恐悦するのかと言えば、清水寺は法相宗と真言宗とを兼学しており、一乗院は法相宗を取り締まる御支配本坊であるからである。
 熊千代は、十一月二十六日にも上洛しているが、忍向はやはり参上している。こうして、両者のその後二十年間にわたる深い関係が、この年から始まるのである。

●徳田武『朝彦親王伝』には巻末に便利な「人名索引」まで付いているのに、本文中の説明以外に参考資料の列挙も説明もないので、上記の引用中に出てくる『成就院日記』と『月照』の関係が分明ではないが、吉川弘文館の人物叢書シリーズの中の一冊に友松圓諦著『月照』(一九八八年一月刊)が出版されているので、その原版と言うべき友松圓諦著『月照』が一三年前の一九七五年に月照所縁の音羽山清水寺から出版されていて、徳田武氏は清水寺版の『月照』に引用されている月照の日記『成就院日記』を朝彦親王伝の史料として参照したのではないかと考える。
 ともあれ、『成就院日記』そのものが何らかの形になって残っているのであれば、徳田氏はそこから引用するであろうから、そうした記述がない以上は、徳田氏の紹介している月照=忍向の事跡はすべて清水寺版の友松圓諦著『月照』に拠ったものと思われる。
●月照の俗姓は玉井氏である。月照とは雅号で、そのほかに宗久、忍向、忍介、忍鎧、久丸などと称した。大坂の町医者玉井宗江の長男として文化一〇年(一八一三)に生まれた。叔父が僧籍にあり、清水寺成就院住職だった。月照はこの叔父の蔵海を頼り成就院に入って得度する。すぐ下の弟も僧籍に入って信海と称した。
 安政の大獄に際しては、弟の信海も京都町奉行小笠原長門守による吟味を受けているが、そのときの取調調書「成就院信海吟味申口書」なる文書が残っている。
「久邇宮朝彦親王を中心としての考察」を副題とする徳富猪一郎(蘇峰)の『維新回天史の一面』(昭和四年五月五日、民友社刊)はその「申口書」(もうしぐちしよ)に拠りつつ、月照・信海兄弟について、こう述べている。

 ……これにてこの兄弟が如何に働いたかといふことの概略が看取せらるゝ。月照和尚忍向は、大坂の町醫者玉井惣榮(そうえい)の子である。彼の名は宗久で、幼年より清水成就院住持蔵海和尚の弟子となつた。斯くて忍向はその師の跡を継ぎ、成就院の住職となつたが、嘉永六年十月寺を出て、行方知れずになつたといふ事だ。その翌安政元年二月弟信海、成就院住持となり、同月忍向も亦た京都に立還つた。これより所々を転住したが、安政三年より弟と共に成就院に同居する事となつたと云ふ。(四三〇頁、総ルビなるも省略)

 お上の取調書だから、「行方知れずとなった」などということが弟の口から出て来るのだろう。むろん、「詳細は知りません」という兄をかばった弟の言葉である。
●忍向が成就院に入って蔵海の下で得度したのは文政一〇年(一八二七)、一四歳の時である。天保六年(一八三五)に叔父蔵海が亡くなると、その跡を継いで成就院住職となった。二二歳の若さで、である。してみると、玉井家と清水寺成就院とは何か特別の関係があったのではないか、と思われる。月照は「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と称えられたが、いかに眉目清秀威風堂々の風采があったとしても、長谷寺・壺阪寺と並ぶ日本三大観音霊場の一つで、近衛家の祈祷寺たる清水寺の寺務を司る成就院の住職に就くには、若すぎるのではなかろうか。弟信海も安政元年(一八五四)に兄の跡を継いで成就院の住職となったのであるから、ますます特別の関係が疑われるのである。
●ところで、清水寺は近世においては「三職六坊」と呼ばれる管理機構によって永らく運営されてきた。三職とは寺主に相当する「執行」と副寺主に当たる「目代」、そして清水寺全体の維持管理や門前町支配などを司る「本願」の三を謂い、執行職は宝性院が、目代職は慈心院が務めたが、本願職を担当したのが月照が住持を務めた成就院なのである。
 すなわち、もともと成就院は仏道修行の道場というよりは、寺院の経済面を担当する総務管理的な部門であって、いわば俗世との繋がりを担う部門なのである。しかも、清水寺は観音霊場として音に高く、清少納言が『枕草子』に「さはがしきもの」の例に清水観音の縁日を挙げているほど、善男善女の参詣で賑わったばかりか、近衛家を初めとする有力者の祈祷にも与ったから、寺領は秀吉の安堵以来の一三〇石ではあったが、寺院経済が大いに潤ったことは想像に難くない。
 騒がしいほどの参詣人があったからこそ、文字通り「門前市を為す」というほどの、土産物屋が建ち並ぶ清水坂の賑わいが成り立ったのである。
●さて今、手元に史料もなく、うろ覚えに曖昧なことを言って申し訳ないのだが、般若坂の非人たちと清水坂の非人たちが闘諍を構えて相争った事件がある。時は世阿弥がまだ世に出る前の、能楽が田楽と言われていた時代のことだったように思う。事件を紹介した本は菊池山哉『長吏と特殊部落』だったか『西大寺叡尊傳記集成』だったかのように記憶する。争いの元は春日大社若宮の祭礼における田楽興行の権利を巡る利権争いだったように思うのだが、間違いであるやも知れない。
 ともかく、般若坂の非人と清水坂の非人とが相争ったということだけは、鮮明に記憶している。つまり、清水坂に非人集団がいた、ということなのである。西大寺が叡尊と忍性以来、非人救済に乗り出したのは、すぐ近辺の般若坂に救うべき非人集団があったからだ。落合莞爾さんのいう極楽寺ネットワークの雛形は西大寺と般若坂非人集団の関係にあったのではないかというのが私見である。
 もしも室町時代から幕末までの永い時代を通じ清水坂に非人集団があったとすれば、これを管理するのは当然ながら清水寺成就院ということになる。その成就院住職を幕末に務めたのが、月照であり、その弟信海だった。
●幕末維新の変動はアイスランド島のラキ火山の噴火に象徴される地球規模の天変地異に乗じて一挙に体制変革を世界規模で展開しようとした世界権力による謀略の余波を受けたものだったが、ロンドン・シティを司令塔とするその体制変革暴力革命の暴虐性を聊かなりとも和らげた功績が、伏見宮朝彦親王と伊予大洲藩出身矢野玄道の創案による「楠公崇拝運動」にあったことを喝破したのは、落合莞爾さんの洞察である。
 その卓見には及ぶべくもないが、私は幕末に澎湃として全国で発生した「ええじゃないか運動」は、伏見宮朝仁親王と矢野玄道のコンビに月照を加えた伏見宮トリオが仕掛けた大衆運動だったのではないかと考える。構想は朝彦親王と矢野玄道により纏められ、説教・口舌の徒を差配する人脈を握っていた月照が実施を担当したのだろう。嘉永五年(一八五二)正月に矢野玄道が「皇学所設置建白書」を提出、三月に朝彦親王が粟田口青蓮院に入った翌年の嘉永六年に月照が成就院から消えたのは、「ええじゃないか」の根回しに奔走したからではないか。