みょうがの旅    索引 

                      

 月照の三越・信濃大旅行と早期隠居の怪 
              (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)11月15日第393号) 

●吉川弘文館の「人物叢書シリーズ」の中の一冊として出版されている友松圓諦著『月照』は「新装版」の刊行が昭和六三年(一九八八)七月一日だが、旧版は二七年前の昭和三六年四月一五日に出ている。図書館で借りてきて、刊行の詳細が分かった。新装版の内容は旧版を写真製版したものか、まったく同じで、本文は一八六頁ある。
 この友松圓諦『月照』によって月照の行跡を追ってみた。すると、六六頁以下にこうある。

 嘉永六年[一八五三]七月下旬から月照は安養院の無着(むじやく)を伴って無断で成就院を出奔し、途中親不知(おやしらず)を通って三越(さんえつ)(越前・越中・越後、現在の福井・富山・新潟県)から信濃(長野県)路に入り、善光寺に参拝し、会田宿(あいだじゆく)[長野より松本に至る北国西街道沿の宿駅]で無着の病気を看護、九月二十五日にそこを出発して十月八日に入洛(じゆらく)している。

 正確な日数は不明だが、ほぼ二ヶ月半にも及ぼうという旅行である。この旅行について、伝記の作者友松圓諦は「何故、こんな無謀な旅行をしたものか、一寸理解することが出来ない」と匙を投げている。
 ただ、「(先行の)責任のない月照伝はこの出奔にからませて江戸や水戸、ときには、東北地方までも遊説させているが、それは小説にすぎない」として、事実に基づかないで勤王僧月照に大活躍させることは戒めている。
●友松圓諦『月照』は、音羽山清水寺の綱紀粛正と借財返済に苦悩する、病気がちで神経質な人物像を描き出している。それでいて、なかなかに行動的なところもあり、特に同書の「第五 月照をめぐる勤王運動の人々」という章では親交往来の頻繁だった人として筆頭に「青蓮院宮」を挙げ、第二に「近衛忠煕」を挙げて、近衛家と伏見宮(中川宮)との密接な関係を拾い上げている。
 もっとも、月照の勤王運動は周囲を取り巻く人々に促された、あくまで受動的なものであったと、慎重な言葉を択びつつ同章の初めで述べているのは、浄土宗の僧でありながら伝統仏教に飽き足らずNHKラジオ「法句経講話」を放送したのを契機に、大衆への仏教啓蒙運動たる「真理運動」に邁進した友松圓諦ならではの評言である。

 月照は清水寺成就院に住持する一祈祷僧である。政治運動を自ら志すものではない。どこまでも受け身である。かねて自分と別懇にする人々の中に勤王運動につくす者があったので年来の交情にほだされ、動かされ、共鳴したのである。彼は決して主謀者ではない。たまたま、そうした主謀者と長く交際していたので、自然、その中にひきずりこまれたという方が正しいかも知れない。ただ彼の身分が当時として重要な役割をしたというだけのことである。

 友松圓諦(一八九五~一九七三)は名古屋市中区の米屋の伜に生まれたが、九歳の時に、愛知県稲沢市目比出身の友松圓察が住職を務める東京深川の浄土宗安民寺の養子に出され、坊主修行が嫌で一時は軍人や医者になろうともした。だが、昭和初期の独仏留学で仏教研究の重要性を痛感し、仏教啓蒙運動の真理運動に邁進した。安民寺が戦災で消失すると、無宗派の神田寺を創建して明治仏教研究と大衆啓蒙運動に挺身した。ユニークな仏教僧侶である。
●ちなみに、余談ながら、友松圓諦が継いだ安民寺の法統が面白い。神田寺の前身は法禅寺と安民寺という二つの寺である。神田寺の「略寺史」によると、法禅寺は室町時代(一三八四)に開山の械蓮社言誉定実により品川に創建されたという。後陽成天皇文禄二年(一五九三)道三河岸へ移転(日照山法禅寺と号す)、後水尾天皇元和七年浅草橋近くの馬喰町へ移転、俗称にて「極楽寺」と称された。一方の安民寺は霊厳寺(寛永元年創建)の一学寮として「安民窟」の名で寛永元年に創始、延享・明和のころ「安民窟」「安閑窟」の名が見え、明治三年に友松圓察が安民窟二十一世と安閑窟十九世を兼務、両窟を合併し安民寺と称した。圓察が友松圓諦の養父である。明治一〇年に圓察は法禅寺三十一世に転出、三世を経て法禅寺三十五世を継いだ友松圓諦が戦災により焼失した法禅寺と安民寺を合併して無宗派神田寺を昭和二二年に建立するという次第である。
 ここに不思議なるは、法禅寺が俗に「極楽寺」とも称されたとあることで、その三十五世を享けた友松圓諦が月照の伝記を残したのも、これまた偶然の沙汰とも思えない。本号の落合莞爾稿の「洞察日本史」にあるように、浄土宗法禅寺もまた「極楽寺」商業網の一端を担った寺だったのかも知れない。
 月照が王事に奔走したことを、友松圓諦は「彼は決して主謀者ではない。たまたま、そうした主謀者と長く交際していたので、自然、その中にひきずりこまれた」だけだと評しているが、「たまたま」などという言辞は目に見えるものだけを是とする近代合理主義の発想であって、仏教者には相応しからざる軽口というべきであろう。もちろん、清水寺成就院の一祈祷僧が「王事」の主謀者だったなどと言うつもりは毫もないが、友松圓諦が別の箇所で「月照が勤王運動にはたした役割は全く近衛忠煕という当時の中心人物の蔭に働く黒頭巾であった」(九八頁)と指摘しているように、月照が蔭の役割を果たしたことは紛れもなく、その役割とは何であったのか、そして「王事」とは果たして何であったのかを明らかにして、維新草莽変革史観の欠を補いたいと願うばかりである。
●余談はさておき、病身ながら前例のない新発想の思い切った行動を次々に繰り出した月照の身辺がいよいよ慌ただしくなるのは、日本近海に異国船が出没、列島南北に来寇し威丈高な通商開国の要求を頻りに唱えるようになるころからである。
 すなわち、友松圓諦『月照』九四頁に「弘化四年(一八四七)二月九日宮二十四歳、清水寺に参詣」とあるころからで、伏見宮が見識備わりいよいよ王事に与るに至る前夜の時期である。
『月照』巻末の、主に『成就院日記』に拠ったと覚しき「略年譜」によれば、

嘉永元年(一八四八)三月八日、所労のため江州へ出向○四月九日、東寺月参○七月一二日、近衛忠煕参詣、知門(忠煕公息)と会う
嘉永二年(一八四九)一月一〇日、忍向と改名○二月三日、改名届○八月二三日、東寺月参
嘉永三年(一八五〇)一月二日、引籠○五月四日、異国船近海に見ゆ○小林良典三男病気のため退身○八月二一日、三七日別行○一〇月一日、三七日別行
嘉永四年(一八五一)一月四日引籠別行○二月四日、御隠居届出○三月二二日、一乗院宮と法談○四月一七日、御隠居届再提出○四月一九日、槇尾山に引籠○五月二九日、帰院○六月二日、出南○九月一二日、青蓮院に移転○一山自粛申合
嘉永五年(一八五二)四月二〇日、青蓮院宮に立入○九月二四日、御志法事○一一月八日、小林良典入来

とあって、先述の翌嘉永六年の三越・信濃をめぐる大旅行へと続くのである。
 右の「略年譜」にも屢々登場する小林良典(よしすけ)(一八〇八~五九)とは『月照』に「世々鷹司家に仕える諸大夫の出であるが、安政年度、青蓮院宮・近衛忠煕・三条実万などに協力して勤王運動につくすところがあり、戊午の大獄に処罰せられた人である」(一一七頁)との説明がある勤王家であった。五歳年下の月照とは格別に親交厚く、月照三〇歳の天保一三年(一八四二)九月一日の『成就院日記』に「小林筑前守(良典)殿御奥方御同道御入来被レ成候事。富左近将監殿其他御同道五人計有レ之」とあるのを初見として清水寺にも屢々参詣し、また弘化二年ころからは「寺の肝入(きもいり)・世話方の一人」にも任じ種々の相談に与っていたらしい。
●嘉永四年二月四日に「御隠居届出」の文字が初めて出てくる。天保六年に二二歳で成就院住職となってよりすでに一六年の歳月を経たとはいえ、月照いまだ三九歳にして、御隠居届出とは余りに早すぎる。一乗院宮は当然にもお許しにならない。そこで二ヶ月後に再提出するも不許可。御隠居届出の理由は清水寺六坊の円養院と義乗院の不和にあり、一山の管理者として不和の責任を取ろうとしたらしい。一乗院宮の裁可は月照の御隠居届出を不許可とする一方で、円養院と義乗院に隠居を仰せつけるというものだった。月照は九月八日お礼のため出南(南都出張)している(略年譜に不出)。
 月照の御隠居届出が許可となったのは、嘉永六年の三越・信濃大旅行に対する処分という形を採った。

 ……しかし一院の住持がたとえ山内不和のためとはいえ寺務を怠ったことは、「惑乱世評不穏」につき「境外隠居」に処せられた。嘉永七年二月二日のことである。(同書八二頁)

と説明されているが、その隠居許可には、「且山内立入之儀ハ御差構之無」という書き添えがあり、いかにも出来レースの感を否めないではないか。