みょうがの旅    索引 

                      

 月照と修験および非人との関係 
       (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)12月1日第394号) 

●『成就院日記』によれば、月照隠居を許可する理由に「惑乱世評不穏」を挙げている。これは「世評を惑乱して穏やかならず」とでも訓むのであろうが、嘉永七年(一一月二七日に安政に改元)二月二日を以て成就院の住持を隠居となった月照は却って行動の自由を得て王事に奔走したものと思われる。
 成就院の住持は月照隠居の後を弟の信海が継いだから連絡に支障はなく、さらに月照自身も「且山内立入之儀ハ御差構之無」とあるように成就院への立入を禁じられたわけではなかったので、清水寺および成就院にはしばしば帰院止宿し、ここを拠点として自由に動き回ることを得たのである。
 友松圓諦『月照』巻末の「略年譜」によって月照の転居を拾ってみると、洛北円通寺(嘉永七年五月)、大徳寺小舎庵(安政二年一月)、長楽寺云云庵(安政三年一月)、玉雲院(同年四月)、霊雲院(同年一二月)、東福寺中即宗院採薪亭(安政四年四月)とあり、隠居してから三年余りの間に六回も居を移している。ほぼ半年に一回の割合である。四二歳という早すぎる隠居とはいえ、席の温まざる異様な蒼惶ぶりと言わざるをえない。
 記録に残った限りでも隠居後の月照の活動は近衛忠煕と青蓮院宮との関係が顕著である。ただ、こうした勤王僧としての月照の活動はこれまでの月照伝で充分に注目されているのでここで改めて採り上げることはしない。西郷南洲との関係も薩摩錦江湾入水事件で有名であるからここに注目するまでもなかろう。
●それよりも月照と修験との関係に私は注目したい。それは同時に伏見宮・近衛家──薩摩藩──清水寺・成就院──修験という隠れたネットワークの存在を疑わせるからである。
 月照隠居後の嘉永七年八月二三日に原田才輔(さいすけ)経允(つねのぶ)が沼尾右兵衛、清浄光院、そのほか三名を伴って清水寺に入来、「茸狩り」をしたという記録がある。原田才輔について友松圓諦『月照』はこう解説している。

 原田才輔は薩州の人、『銘肝録』に出る三条家の諸大夫丹羽豊州の物語に出るところによれば、「薩藩にて東京の老人なり。陽明家へ鍼治(しんじ)を以て出入する人なり。河原町高瀬川の辺に住せり。三条家へも時々参りて余も面会せる事あり。篤実・慷慨(こうがい)の人物なり」とあり、近衛家をめぐる一人の勤王家である。月照兄弟を近衛家に接近させ、御立入・歌道の入門を周旋したのは彼である。また、あるいは、月照をして薩州の人々、従って西郷隆盛にひき合せたのも彼ではないかと、自分は想定しているほどの重要な人物である。(同書一三〇頁)

また、別に「かくして月照たちの政治運動がはじまるのであるが、戊午の大獄に原田の名は出ていないが、月照のあるところ、つねに原田才輔が存在していたことをわすれてはならない」(一三八頁)と言い、月照を引き入れたのが原田才輔である、と友松圓諦は見ている。
 沼尾右兵衛は園家の雑掌であるが、友松はこの沼尾も薩摩藩に関係あるのではないかと推測している。
 月照と原田才輔との交流はそれほど古くはなく、茸狩りの直前、八月四日に月照が原田から三日間の祈祷を頼まれたとの記事が『成就院日記』にあるが、これが原田関連記事の初出である。月照の自筆歌集である『落葉塵芬(じんぶん)集』には原田才輔に関連した歌がもっとも多く、月照と原田才輔が隠居後に急速に親しくなり親近したことを証する。
 問題は「茸狩り」に同道したもう一人の人物清浄光院である。清浄光院について友松は『維新史料』第一三七篇に載る作者不詳の『僧月照伝』に月照が薩摩入りするときの記述として、

 十一月朔、竹内ニ別レ出帆シ薩摩国市來港ニ着ス。同国第二ノ番所ニ至リ鹿児島ノ修験清浄光院ニ詣(イタ)ル旨ヲ演(ノ)ブ。(中略)同月十一日清浄光院ヘ詣リ、又西郷ヲ訪フ。

とあるのを引いて、

 清浄光院が鹿児嶋の修験であることがわかる。日高の存竜院主こそが清浄光院であることが察しられる。存竜院は醍醐の三宝院支配下の修験である。
 安政五年十一月、月照が平野國臣と僕重助をつれて入薩を試み、自らを静渓院鑁水(ばんすい)と名乗り三宝院から存竜院への使僧といつわったのも決して根のないつくりごとではなく、清浄光院とは四年前から原田を通して知り合った間柄であったからである。(一三九頁)

と述べている。すなわち、清浄光院とは天台宗系本山派修験と並ぶ真言宗系当山派支配の醍醐三宝院に属する修験寺存竜院に住持する修験山伏だったのである。
 さらに月照は清浄光院の弟子筋に当たる真乗院と名乗る修験とも親近していた。『成就院日記』の安政四年十月四日条に「今度薩州へ清浄光院附弟、真乗院御帰国」とあり、翌五日に月照はこの真乗院の旅宿まで餞別に趣いている。また、西郷隆盛の『書簡集』にも、十一月十一日に存竜院に到着した月照を二日後の十三日に真乗院が訪問したことが出ている。
 月照と修験とを結ぶ痕跡はこれだけにすぎないが、薩摩の清浄光院と真乗院という二人の修験は伏見宮──月照──修験という連繋勢力の、わずかに露顕したその一端ではなかったか、と私は推測するのである。
●先々号で清水坂と般若坂の非人たちが闘諍を構えて相争ったことに触れたが、調べてみると『長吏と特殊部落』(菊池山哉(さんさい)、東京史談会、昭和二八年刊)で読んだことが分かった。ただし、「般若坂」と記憶していたのは坂沿いに般若寺があるからで、「般若坂」なる名称は間違いではないものの奈良坂という方が一般的である。般若寺は真言律宗の叡尊・忍性所縁の寺である。
 さて、菊池山哉『長吏と特殊部落』下巻(一六七~一七〇頁)は寛元二年(一二四四)に奈良坂非人等が清水坂非人を訴えた「清水坂非人等條々虚誕子細状」を順を追って詳しく整理しているが、事件のあらましを纏めた紹介が『Web版尼崎地域史事典apedia』というサイトに「奈良坂・清水坂両宿非人争論」と題し出ていたので、これを紹介しよう(年号表記変更)。

 鎌倉時代には、奈良興福寺に属する奈良坂非人と、京都清水寺に属する清水坂非人が、本宿として畿内近国の各宿駅(末宿)の非人を支配していた。当時、興福寺の末寺であった清水寺がその支配を脱して延暦寺の支配下に入ろうとし、争論を引き起こしていた。清水坂非人もまた、奈良坂非人の支配を脱しようとし、奈良坂寄りの清水坂長吏の排斥、あるいは清水坂長吏と奈良坂の対立など、近国の非人法師をも巻き込んだ一連の争闘に発展した。争いは一二一〇年(承元四)ころから少なくとも一二四四(寛元二)ころまで続いた。
争いの当初の一二一〇年ころ、排斥された清水坂長吏に味方した河尻小浜宿の長吏若狭法師らが、京都へ攻めのぼる途中淀津で山崎の吉野法師らに破れて奈良坂に落ちのび、奈良坂長吏の庇護を得て小浜に帰還するということがあった。この小浜はかつては現宝塚市域の小浜に比定されていたが、現在では臼井寿光の研究により、前後の地名などから尼崎市域の尾浜を指すと考えられている。[執筆者:地域研究史料館]

 鎌倉時代初期の寛元の頃、奈良興福寺配下の奈良坂と京都清水坂に畿内各宿の非人を支配する非人頭の「長吏」がいたこと、清水寺が興福寺の末寺でその支配下にあった旧態を脱し延暦寺の支配下に入ろうとしたのと軌を同じくして、清水坂宿の非人らが奈良坂宿非人の支配を脱しようと軋轢を生じたこと、両宿が畿内近国の各宿を支配する本宿であったために畿内各宿を巻きこんだ争闘に発展したことを、右に引いたapediaは要領よく述べている。なお文中「畿内各国の宿駅(末宿)」とあるのは誤りで、宿と宿駅とは必ずしもイコールではない。宿とは長吏が支配する非人部落のことである。
●清水寺門前の清水坂に非人の宿があり、またここの非人頭=長吏が興福寺支配下の奈良坂宿の長吏とともに畿内各宿を支配する本宿であったのは鎌倉初期のことであり、その後に清水坂宿および長吏がどのような経緯を辿ったのか詳らかではない。ただし、坂上田村麻呂が妻の高子の病気平癒のため鹿の生き血を求めて音羽山に上り修行中の子嶋寺延鎮に殺生を戒められて観音に帰依し、自邸を本堂として寄進したという清水寺縁起は非人の境涯を代弁するかの趣があり、日本三大観音霊場の一つ清水寺と非人との関係には深いものがある。幕末「ええじゃないか」の呼声に混じって非人たちの身分解放の叫びが聞かれたとの説もあり、修験と月照との関わりはわずかに捉えたが、伊勢神宮や秋葉神社の神符を降らせた御師や修験と月照との関わりも歴史に隠されているのではなかろうか。