みょうがの旅    索引 

                      

 日本人の遙かなる旅 
 (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)2月1日第397号) 

●本誌みち平成二三年一〇月一日発行三四六号「黒潮文明論57黒潮の禊場=必志、干瀬、備瀬、尾嶼」で稲村公望は元愛知県刈谷郵便局長の長田喜八郎氏が著書『残っている古代の風土記』の中に記した

 大隅の国の風土記に、必志(ひし)の郷(さと)は、むかし、この村の中に海の洲(ひし)がありました。(鹿児島県曽於(そお)郡大崎町菱田の志布志湾に臨む菱田川の河口を言いました。)その為に必志の里といいます。海の中の洲(す)は、隼人の土地の言葉で必志(ひし)というとあります。(干洲(ひす)の音が訛ったものです)

という一節を引いて、直ちに渡嘉敷島に属する巨大珊瑚環礁「慶伊干瀬(ちいびし)」と池間島北方にある大珊瑚礁群八重干瀬(やびじ、やえびし)を想起し、黒潮の民が海中の浅瀬である必志、干瀬、備瀬、尾嶼で神事として禊を行なったことを偲ぶ文章を書いた。そしてさらに、日本列島全土の神社で行なわれる浜下り(浜降り)神事や、川の中洲を聖所とする日本の伝統が黒潮の民の遺風を継承するものであることに思いを致している。
 洵に慧眼と感服するほかないが、それにしても、天神信仰や山岳信仰に代表されがちな、わが神道の基底に脈々として黒潮文明が息づいているとは、改めて大きな驚きである。
●奄美大島出身の稲村公望が本誌毎号で展開する斬新な着想に促されるように次第に黒潮文明に関心を抱くようになって、言語学者村山七郎(一九〇八~九五)の著書を取りだして読み直してみた。また、所蔵しない本は新たに買い足して読んだ。村山七郎は日本語の起源として北方アルタイ語と黒潮文明の南島語を共に重視する研究者だからである。すると、村山七郎が日本語ばかりでなく、アイヌ語までもが南島語の系統に立つと主張していることを知った。その居住地が北海道や千島列島、樺太など北方地域であることから、アイヌは北方ツングース系であると信じて疑わなかった私は驚いたのだった。
●村山七郎の没年に刊行された最後の著作『日本語の比較研究』(三一書房、一九九五年刊)はアイヌ語と琉球語と日本語についてそれぞれ一章を宛てて南島語との関係を論じているが、その「第Ⅰ章アイヌ語」の冒頭において、こう言っている。

 わが国ではアイヌ語の単語の語幹は単音節である、という見方が一般的であるが、それは正しい見方ではない。一見、単音節からなると思われるアイヌ語語幹は幹収縮(ドイツ語で言えば、Stamm Verkurzung)の結果生じた語形である。(同書一二頁)

 つまり、ちょっと見ただけでは似ても似つかないように見える単語でも、アイヌ語に特有の「幹収縮」という音韻変化の癖を考えに入れて捉えると、南島語の祖型(として再構された原始オーストロネシア語)からアイヌ語への変化が説明できる、というのである。
 その幹収縮を「第一音節の消滅」とそれ以外の「非第一音節の消滅」とに分け、「第一音節消滅」の例として、

*adav日、太陽∨to日、天気
*aku 第一人称単数代名詞∨ku私
*at'at乾ける、浅い∨sat「乾ける」、日本語asa「浅」(*は南島祖型であることを表わす)

などを挙げ、また「非第一音節消滅」の例には、

*'avasu舌(原始ツォワ語)∨'aw
*babav上∨pa「頭」
*pat'iγ(海浜)∨*pit'i∨pis浜

などを挙げている。
●さて、村山は「非第一音節消滅」の例として右に挙げた最後のアイヌ語の単語「pis浜」に(注1)を付して、次のように述べている。

『大隅国風土記』の必志fisi「海の洲」(「海中之洲者隼人俗称云必志」)、首里方言のhwisi「満潮の時は隠れ、干潮になると現われる岩や洲」はアイヌ語pis「浜」と同じく、原始インドネシア語*pat'iγ「海浜」にさかのぼるであろう。*pat'iγ∨pisi∨pisという変化であろう。(一七頁)

これを目にしたとき、私はすぐさま稲村公望に連絡し、アイヌ語にも必志、干瀬、備瀬、尾嶼があることを知らせたのだった。
 服部四郎編『アイヌ語方言辞典』でも千島方言と樺太方言、宗谷方言を除く北海道全域で「浜beach」はpisと出ている(二一八頁)。その樺太方言にはsiripissamとあるが、これもまたsiri-pis-samと考えれば、pisを含むと言えるのではないか。
 首里方言の説明は国立国語研究所編『沖縄語辞典』から村山七郎が引いたものであるが、そこには「hwisi」の説明として確かに次のようにある。

[干瀬]満潮の時は隠れ、干潮になると現われる岩や洲。大隅風土記の「海中之洲者隼人俗語云必志」の「必志」(ひし)と比較される。(二四一頁)

●これはいったい何を意味するのか。それは単に「海浜」を意味する単語が沖縄と、隼人の里である九州南端と、北海道に住むアイヌ人の間で共通することだけを言うのではない。稲村公望の卓見を念頭に置いてみると、遙かなる昔に黒潮の民が海浜で斎戒沐浴して航海の無事ならんことを祈る神事を行なった後に、蒲鉾形「丸ノミ型石斧」と磨製石器によって作り上げた舟にて源郷スンダランドを出発、フィリピン群島やインドシナ、支那大陸南西沿岸部、台湾を経つつ琉球列島弧に至り、さらに北上して九州南端に辿り着き、また四国南部に立ち寄りながら熊野に上陸、そこを拠点にして日本列島中部や東北部、さらには津軽海峡を越えて北海道や樺太、千島列島にまで達した広大な旅を想像させるのである。
 油断を許されない緊張の連続の航海を無事終えて大地を踏みしめる度に、彼らは海浜にて改めて身を清め神々に感謝の祈りを捧げたに違いない。
 黒潮の民の上陸地の一つだったはずの、志布志湾に臨む菱田川の河口(現鹿児島県曽於(そお)郡大崎町菱田)は特別の海浜として永らく記憶され上陸を記念する神事も年毎に催されたであろう。だからこそ、長い歳月の間に上陸記念の神事は廃れても、そこが黒潮の民にとって特別神聖な場所であることは変わらず、ただ、「必志の里」という地名だけに遙かな記憶が封印されたのではなかろうか。
●アイヌ人の間に上陸地点を記念するような海浜禊神事があるのかどうか、いまだ不勉強にして詳らかにしないが、アイヌが生来身につけていた航海技術を北の海でも存分に発揮したことは、千島アイヌ語についての言語的調査を実地に行なったことのある村山七郎も注目している。
 民俗学者国分直一との対談集『原始日本語と民族文化』(三一書房、昭和五四年刊)の中で村山はこう指摘している。

 ……間宮林蔵が北海道からカラフトに渡り、一八〇九年に間宮海峡を横断して大陸に出てアムール河下流地方を探検しましたが、この探検にはアイヌの水先案内があったのはもちろんです。アイヌは古くからこのルートで満洲族と交易していたのです。アイヌが満洲からはこんで来た織物を松前藩はエゾ錦と称して江戸幕府に献上していた、という話を泉靖一先生にうかがったことがあります。アイヌは古くからなかなかの航海民族で、カムチャツカ半島西岸南部にアイヌのコロニーがあったくらいです。そのことについて私は、一九六八年の国際人類・民俗学会議のとき発表しました(「カムチャツカのアイヌ」)。カムチャツカ半島の最南端は、ロパトカ(肩骨)岬と言いますが、それはアイヌが肩骨(タベレ)岬と呼んでいたのをロシア人がロシア語に翻訳したのです(拙著『北千島アイヌ語』、三四六頁)。(同書二四四頁)

●日本人の起源を考えるとき、スンダランドに発する南方からの黒潮ルートが遙か昔からの民族移動経路であったことは間違いない。黒潮の民は房総沖で黒潮の流れから離れた後も、親潮を乗り越えて日本列島を北へ北へと進んで北海道まで渡り、さらに千島列島を伝ってカムチャツカ半島へ、あるいは樺太島を経てアムール河の流域までにも進んでいったのである。
 逆に、シベリアから樺太を経て北海道に渡り、さらに津軽海峡を越えて本州に至るという北方ルートも日本列島への民族移動の一大経路であったことは否めない。二〇〇一年放映のNHKスペシャル『日本人はるかな旅』も、その第一集「マンモスハンターシベリアからの旅立ち」で、二万三〇〇〇年前にバイカル湖西方のマリタ遺跡で細石刃を発明して道具革命を成し遂げたマンモスハンターたちが最終氷期(七~一万年前)最寒冷期(二万一〇〇〇年前)にマンモスを追ってシベリアを東に進み、樺太から北海道そして日本列島に渡来したという説明を行なった。
 そうした南方あるいは北方、そして半島経由で流入した痕跡を、われわれ日本人がすべて遺伝的に保存していることはミトコンドリアDNA分析からも明らかになっているのである。