みょうがの旅    索引 

                      

 ツラン民族揺籃の時代と地域 
      (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)2月15日第398号) 

●平成一三年に放映されたNHKスペシャル『日本人はるかな旅』の第一集「マンモスハンターシベリアからの旅立ち」では、シベリアの旧石器時代を代表するマリタ遺跡を大きく取り上げている。
 マリタ遺跡はシベリア中央部に位置するバイカル湖に近いイルクーツク市から北西に八〇キロ離れた小さな村、マリタ村(マクソホン村とする資料もある)で発見された。バイカル湖南西部からは全長一八三〇キロのアンガラ川が発して北流し、やがてエニセイ川に流入するが、そのアンガラ川の支流の一つベラヤ川を二八キロ遡った上流の左岸高台にマリタ遺跡がある。
 マリタ村の農民P・ブリリンが川岸近くの地中から大量の骨を一九二八年に発見して、イルクーツク郷土誌博物館に届けたのが遺跡発見のきっかけとなった。知らせを受けたソ連人類学者ゲラシモフはすぐさま調査を開始して、ほぼ三〇年間にわたり組織的発掘調査を毎年(大戦期間中の一時期を除く)のように続けたのだった。
 考古学者ゲルマン・イヴァノヴィッチ・メドヴェージェフ(代表的著作として共著『シベリア極東の考古学 3 東シベリア編』[岩本義夫他訳、河出書房新社、昭和五八年刊]がある)が跡を継いだが、警戒の厳しいソ連時代に日本人としてマリタ遺跡を最初に訪れたのは札幌大学木村英明教授だった。
 その著書『シベリアの旧石器文化』(北海道大学図書刊行会、平成一一年刊)の内容紹介には、

 筆者が一九七九年に数カ月間のソ連滞在を特別に許され、イルクーツク、ノヴォシビルスク、モスクワ、レニングラード(旧)にある大学や研究所を訪ね、その後も幾度かソ連・ロシアを訪問する機会に恵まれた際に直接観察することができた資料を基礎にしてまとめたシベリアの旧石器時代に関する研究書である。

と述べられている。
 木村英明教授はNHKの番組製作にも協力し、番組の成果を纏めた単行本『日本人はるかな旅①マンモスハンター、シベリアからの旅立ち』(日本放送出版協会、平成一三年刊)の共同執筆者の一人でもある。
●さて、国立科学博物館ではNHKの番組製作に全面協力すると共に、番組の終了後に「日本人はるかな旅展」を平成一三年九月に開催した。その記録が同館のウェブサイトに残されている。「寒さを味方にしたマンモスハンター(1)」と題された頁では、下図を掲げて次のようにマリタ遺跡について解説している(表記一部改変)。




 今からおよそ二万五〇〇〇年前、現在より平均気温が七~八度も低かった最終氷期に、人類は、シベリアに通年使用する「定住」的なムラを築き始めました。厳しい寒さを真に克服した記念すべき第一歩です。
 一例として、シベリアの古都イルクーツク市の北西八〇kmに世界的に有名なマリタ遺跡があります。二万三〇〇〇年前のマンモスハンターの遺跡です。小型の石刃、石錐、彫器など一万点を越す石器や剥片とともに、大きな板石やマンモスの骨と牙、鹿角などが集積したテント式住居の跡が数多く見つかりました。
 推定四八~六〇人、八~一〇軒の家で構成されたムラは、何度か引越しをしながら長期間この地に存在したようです。

 今から二万三〇〇〇年前ということは、七万年前に始まり一万年前に終了した最終氷河期(ヴュルム氷期)の中でも、もっとも寒かった「最寒冷期」にピタリと一致する。つまり、極寒のシベリアで寒さを克服し、一年を通して一つの場所にずっと住みつづけるという「定住生活」を達成したマンモスハンターたちではあったが、氷河期の最寒冷期に遭遇すると、主要食料だったトナカイやマンモスが移動したために、さすがに定住地を捨て別の場所に移動することを余儀なくされたのである。遺跡年代の「二万三〇〇〇年前」とは、遺跡が放棄され、それ以上新しい年代の遺物が確認できないことを意味する。
 前掲の地図を見ると、マリタ遺跡の左上に「細石刃石器群」の文字が見え、そこからさらに四本の矢印が右や上方に伸びているが、この地図では東が上となっているので、シベリアを東へと移って行ったのである。
 東へ伸びる矢印の一本は朝鮮半島を目指している。その次の矢印は沿海州から樺太を目指していて、矢印の右側には「二万年前」という文字がある。つまり、マリタ遺跡で発明された細石刃石器が年代測定で二万年前の遺物と共に出土するのだ。樺太や北海道でも二万年前ころの遺跡で細石刃石器が数多く発見されている。当時の時間感覚からすれば、ほとんど「瞬く間に」、細石刃文化はマリタ遺跡からシベリア東方へと広がったのである。
●シベリア中央部に位置するマリタ遺跡での定住の始まりは二万五〇〇〇年前と解説にあるが、してみるとおよそ二〇〇〇年の間マリタ遺跡は維持されたものと思われる。
 前掲の地図で「マリタ遺跡」の文字の下に「石刃石器群」(四万年前)と書かれている。マリタ遺跡の西北方面に、マリタに先立つ四万年前の石刃石器が集団で見つかる遺跡があるという意味だろう。また、地図の右下からも矢印がマリタに向かい伸びようとしているが、これは南回りでスンダランドに達した人々の中でさらにシベリアに移動し「新モンゴロイド」を形成する一部となった人たちがいたことを示唆する。
 一〇軒前後の家からなり五〇人前後の人口をもつマリタ遺跡そのものは、最終氷河最寒冷期に放棄されたのかも知れないが、次第に温暖となったこの地域に留まった人々があったことも考えられる。そうした動きは地図上の矢印に表現できない。ただ、現在調査された限りでは、継続する定住の痕跡が見つかっていないというだけである。
 というのも、このシベリア中心部はまさにツラン民族の源郷であるとともにミヌシンスク文明の圏内にあるからだ。初期ミヌシンスク文明は第一期のアファナシェボ文化(五五〇〇~四〇〇〇年前)、第二期のオクネフ文化(四〇〇〇~三五〇〇前)、第三期のアンドロノヴォ文化(四〇〇〇~三〇〇〇年前)と年代・地域により分かれているから、マリタ遺跡が放棄された時代からミヌシンスク文明の始まった五五〇〇年前までは約一万七五〇〇年前後の空白が存在する。だが、いずれは人類文明史のこの空白を埋める発見が行なわれるに違いない。
●NHKの番組でも紹介があったが、現在までマリタ遺跡の周辺に住んでいるのはモンゴロイド系のブリヤート族である。ブリヤート族の総人口は六〇万人弱である。もっとも纏まって居住するのは、西北部を除きバイカル湖をぐるりと取り囲むように位置しているブリヤート共和国で、ここに二七万人余りが住んでいる。バイカル湖西北部はロシア連邦イルクーツク州でここに八万人、ブリヤート共和国の東南で、チタを擁するザバイカリエ地方(旧称ザバイカル)に七万人、モンゴル国に八万八〇〇〇人、そのほか支那に四万人が住んでいる。
 佐賀医科大学は平成一三年のNHKの放送に合わせて「日本人はバイカル湖畔のブリヤート人との共通点が非常に多く、朝鮮人、南中国人、台湾人などと共通する特徴を持ったのが各一体だったのに対して、ブリヤート人とは一七体近くが共通していた」と発表しているが、その佐賀医科大学を経て現在は国立科学博物館人類第一研究室長を務めるミトコンドリアDNA分析の第一人者篠田謙一氏は著書『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造』(日本放送出版協会、平成一七年刊)の中の「ハブログループM10──北方アジアにつながる系譜」という小節で、M10は現在の日本の人口に占める割合は一・三%だが、茨城県取手市の中妻遺跡から発掘された一〇〇体ほどの縄文人骨の多くがM10を持っており、「特にそのなかでもバイカル湖周辺のブリヤートの人たちが持つDNA配列と一致していたのです」(一二七頁)と書いている。
 NHKの番組に登場したブリヤート人たちは顔立ちや仕種などが日本人にそっくりで、まさしくここにツランの源郷があったのだ、という感慨を深くしたのだった。