みょうがの旅    索引 

                      

山野井泰史「自分の人生は間違っていないのか」 
               (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)3月15日第400号) 

●沢木耕太郎というノンフィクション作家が書いた『凍』(新潮文庫、平成二〇年刊)を読んでいる。世界最高峰であるヒマラヤのエヴェレスト山(標高八八四八メートル)の西北方に位置して標高八〇〇〇メートルにわずかに足りない標高七九五二メートルのギャチュンカン(百の谷の山)という山がある。その北東壁からの登頂はいまだ誰も成功したことがない登山ルートだった。登山家の山野井泰史・妙子夫婦が前人未踏のギャチュンカン北東壁に挑むことを計画しながらも現地で無理と判断、北壁からの挑戦に切り換えて登頂に成功する壮絶な物語である。
 この本に引用されている朝日新聞の記事は登頂成功をこう報道している。

 岩壁やヒマラヤ高峰の先鋭的な登攀(とうはん)で世界的に知られる山野井泰史さん(37)は10月、中国・ネパール国境のギャチュンカン(7952メートル)に北壁から単独登頂を果たしたが、下山時に悪天候につかまり手足に重度の凍傷を負った。途中まで同行した妻の妙子さん(46)との、雪崩の巣と化した北壁からの脱出行は極限のサバイバル体験だった。
(同書三三四頁)

 山野井夫婦のギャチュンカン登頂は平成一四年のことであるが、この年に二人は「植村直己冒険賞」を受けている。新聞が「極限のサバイバル体験」と呼んだギャチュンカン登山に山野井はなぜ挑んだのか。そして、あえて困難に挑戦する山野井はその間に何を考え、何を思っていたのか。二人の思いの細部や襞にまで立ち入って克明に記録した沢木耕太郎の文章は、山が嫌いな私にも深い感動を与えるものだった。
 必ずしも前人未踏の高峰を目指すのではなく、あえて困難な登攀に挑み戦い続ける山野井夫婦の姿勢をも睨みながら、沢木耕太郎は雑誌の連載中には「百の谷、雪の嶺」となっていた表題を同音の「闘」の意味も込めて『凍』という書名に変えた、と「後記」に記している。分野や対象は違っていても、次々に襲い来る難題や困難と戦い続け克服して行くのが生きるということであって、それは万人に共通の運命なのであろう。だから、山野井夫婦がギャチュンカンに挑戦する物語は読む者にずしりと重く、そして何時の間にか、感動と勇気とを与えてくれる。
●ただ、ここで私が取り上げたいのは、あえて困難に挑戦し続ける山野井夫婦の姿勢ではない。沢木耕太郎の本を読んでもらえば、山嫌いな人も山好きの人も、そこから各人がそれぞれに感銘と勇気とを得るに違いない。私がふと読むのを止めて考え込んでしまったのは、山野井泰史の記した手帳の文章を紹介しつつ、沢木耕太郎が次のように書いた下り(一三二頁)に至った時である。

 山野井は、ぼんやりと、ヤク使いとして男たちと一緒に来ていた少女のことを考えていたのだ。十歳くらいに見えたが、ギャルツェンに訊ねてもらったところによれば十三歳だという。気になる咳(せき)をし、日本の子にはもう珍しくなった青洟(あおばな)を垂らしていた。山野井は小さな手帳にこう記した。
《最新の装備に囲まれ、ピンク・フロイドを聞きながら、生きて帰れないかも知れない山に挑戦する私。
 かたや、父を亡くした十三歳の少女は、ヤク・ドライバーとして厳しい環境で働かなくてはならない。一枚のビスケットに幸福を感じながら。
 これでいいのか。
 自分の人生は間違っていないのか。
 しかし、残念ながら、あの山を見ると、登らざるをえない自分がいる》

 山野井泰史は栄養状態の悪い一三歳のチベット人の少女を気にしながら、「これでいいのか」と手帳に書いた。そして沢木耕太郎はその文章を、登攀前のベースキャンプでの緊張に満ちた日々の山野井の思いを語る一齣としてはめ込んでいる。
 まったく違う人生を生きる人と人がそれぞれの流れを交差させて、ふと、出会う。そうして出会う人と人とを、主人公であっても、ただ一景だけに登場する路傍の人であっても、行き届いた眼差しで公平に見つめることができるのが、ノンフィクション作家としての沢木耕太郎の優れた資質である。
●山野井泰史は手帳に「最新の装備に囲まれ」と書いたが、実はその「最新の装備」を極力排し、出来るだけ自然な形で山に登ることを自らのスタイルとしているのが山野井なのである。
 山に対するそうした独特の感性あるいは姿勢は、山野井泰史にとって生まれつきのものらしい。何せ、小学校の卒業文集に将来の夢として「無酸素でエベレストに登る」と書いたほどである。酸素ボンベやGPSや無線機などの器機を装備して大人数のパーティーで登山するスタイルに馴染まない感性が山野井にはすでに幼くしてあったということだ。それは天性のようなものと言うほかない。
 山にいることが好きで堪らず、山にさえ登っていれば楽しいという少年であった山野井泰史は山に対する敬虔な気持ちを持ちつづけた。その敬虔な気持ちが同時に、峨々として屹立し人の侵犯を峻拒する高峰への挑戦にも繋がるのではなかろうか。
 だから、人を厳しく寄せつけない山ほど、山野井は惹かれるのだ。だが、登山には金がかかる。たいていの人はスポンサーを探して援助を受けながら登る。もちろん援助を受ければ、それにはなにがしかの対価を払わなければならない。それは本来の登山からすれば、ある種の妥協でもある。そうした妥協を潔しとしない気持ちが、山野井にはある。ネット辞典ウィキペディアには、ギャチュンカン挑戦前の山野井についてこう紹介されている。

 高校就学時よりアルパイン・クライミングに傾倒。高校卒業後はアメリカ合衆国のヨセミテなどでフリークライミングに没頭する。フリークライマーの平山ユージと共にルートに挑戦した。その後はビッグウォール(未踏の大岩壁)や超高所登山に転身し、妻・妙子と共に、毎年、新ルートを開拓する。
 フィッツ・ロイ遠征の際にスポンサーを求めて幾つか会社を回ったものの、難易度が高くてもヒマラヤに比べて知名度の低いパタゴニアでは理解を得られずスポンサーも確保できなかったことから、それ以降積極的にスポンサーを求めることはせず、遠征費用の大半を非正規労働で得た自費で賄っている。

 その山野井泰史がギャチュンカンを前にして思うのだ。

 これでいいのか。
 自分の人生は間違っていないのか。
 しかし、残念ながら、あの山を見ると、登らざるをえない自分がいる。

こう手帳に記した山野井泰史と、それを見落とさず拾い上げた沢木耕太郎に、私は深い敬意を払いたい。
 厳しい条件を自らに課し、困難な山に登る。それは登山家として、尊敬に値する偉業であるだろう。困難な山を前にすると、登らずにはいられない。だが、青洟を垂らした一三歳の貧しいチベット人の少女が一枚のビスケットに幸福を感じるのを見るとき、思わず「これでいいのか」と感じてしまうのだ。
●他人の運命に共感することのできるこのような感性を、私は何よりも大切なものだと思う。共感したからといって、何ができるというわけではない。しかし、まず共感するということこそが、人と人とを結びつけるのだ。
 人間というものは、本当に千差万別である。山野井のように山が好きで好きで、山にさえいれば幸福感を感じる人間もいれば、山が嫌で藪蚊に刺されたりすると、山に二度と行くものかと憎む人間もいる。
 好き嫌いと同じように、人の才能も千差万別である。どうも、人の才能も好き嫌いに深く結びついているようだ。好きなればこそ苦労をものともしないから工夫が生まれ、困難を前にしても何とか克服できる。困難を解決する能力こそ、才能というべきだろう。
 この違いを忌諱して他者を認めなければ、人間社会は成り立たない。差異を差異として認めること。それが成熟した人間社会ではないか。いかほどに優れていようと、一人の人間の能力や出来ることは限られている。異なった様々の人間の能力が尽くされてこそ、われわれの社会は豊かになる。
 それにはまず、他者の運命に共感できること、共苦できること、そういう感性が何よりも大切だと私は思う。
 会田雄次が名著『アーロン収容所』の中に記した英国人のインド人従僕に対する無神経さを想起すると、貧しい少女を前にして山野井が自らを省みて「これでいいのか。自分の人生は間違っていないのか」と感じた感性が何と尊いものに思えることか! 
 世界大戦に至りかねないクリミアでの動きを睨みつつまことに胡乱な話を書いたが、世界的大転換期の今だからこそ、日本人の持つこの共感、共苦の感性が貴重なのである。これから人類は否応なく共に生きていくよりほかはないが、その共生の鍵がここにある。