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 大唐西域覩貨邏国考 
 (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)4月15日第402号) 

●本号の「黒潮文明論113忘れまじ吐噶喇の島々」に吐噶喇列島の話が出てくる。その末尾にかつて本誌に掲載された孫崎紀子さんの説についても触れられている。孫崎説は本誌の平成一八年八月一日発行の二三三号から翌年九月一日発行の二五七号まで一年以上も連載され、その後も断続的に掲載されてきた。吐噶喇列島の宝島で一二月一日から六日間にわたり祝われる「七島正月」については連載第二回目の九月一日号に「トカラ列島宝島考」と題し掲載された。「七島正月」はササン朝ペルシアの風習であって、その遺民たちがかつてこの島に流れ着いた証拠である、とするのが孫崎説の要点である。また、齊明紀六年七月条にある、「覩貨邏の人乾豆波斯達阿、本土に帰らむとし、送使を求ひ請して、『願はくは後に大国に、朝らむ。所以に妻を留めて表とす』と曰ひき。すなはち数十人と西の海つ路に入りき」とある覩貨邏(トカラ)の人乾豆波斯達阿(ケンズハシダラ)については、「ペルシア王子ダラ」と解して、ササン朝再興のため本国に帰ったものとしている。
●日本書紀の孝徳天皇から齊明天皇、天武天皇に至るまで数ヶ所に登場する「吐火羅國」「舎衛の女」「覩貨邏國」「吐火羅人」「舎衛婦人」「覩貨邏の人乾豆波斯達阿」とは、明らかにササン朝ペルシアからの遣使を指している。その目的は王朝再興のための援軍要請だったはずである。
 吐火羅や都貨邏、覩貨邏などと表記は微妙に違うが、彼らがトカラ国からやって来たと書かれたのは、ササン朝の亡命政権が当時トカラ国に所在していたからである。
 では、その「トカラ国」とは果たしてどこにあったのだろうか。
 わが正史に何度も登場する国名あるいは地域名であるから、とっくに定説があるだろうと思いきや、フィリピン説やビルマ説、タイ説、あるいは南西諸島中の吐噶喇列島とする説など、奇説珍説が入り混じって諸説紛々、ようやく落ち着いてきたのは近年に至ってからのことである。
 関西大学の西本昌弘氏が『関西大学東西学術研究所紀要第四三輯』(平成二二年四月一日発行)に「飛鳥に来た西域の吐火羅人」と題し年代的に諸説を纏めているが、学問が如何に迷走するかの一例として、珍説奇説をも含め挙げておこう。

・西域の吐火羅説
・南西諸島の吐噶喇列島説
・フィリピン説
・ビルマの驃国説
・タイ堕和羅国(ドヴァーラヴァティ) 説
・西域の波斯(ペルシア)人説
・スマトラ・ジャヴァ説

 迷走はしたものの、最初の「西域の吐火羅説」は水戸藩『大日本史』巻二四三「吐火羅伝」や飯田武郷『日本書紀通釈』、内田吟風「吐火羅国史考」に説かれた見解で、基本は正解を示していたのである。ただ途中で竹内理三(ビルマ驃国説)や井上光貞(タイ説)、榎一雄(スマトラ・ジャヴァ説)などの史学界の碩学連中が珍説奇説を唱えたのであった。だが、伊藤義教『ペルシア文化渡来考──シルクロードから飛鳥へ』(昭和五五年)が出るに及んで、迷走に終止符が打たれた、と私は見る。
 伊藤義教氏はこう言っている。

「書紀1─4」(日本書紀の登場例)にみえる地名吐火羅・覩貨邏・覩貨羅すなわちトクヮラはそれぞれ、異なる漢字表記をみせているが、いずれも同じ地域を指すもので、伝統的にはトカレスターン(トハーレスターン)とされてきた。これはアフガニスタン北部から隣接するソ連領域の一帯を汎称するもので、クンドゥズ、バルク(バルフ)、サマルカンド、ボカーラー(ボハーラー)などの都市を擁する地域である。(同書五頁)

●このトカレスターン地域はイスラム教が浸透する直前まで一大仏教信仰圏であった。支那文献にトカラ国が登場するのは、まず仏典ないしは訳経僧の出身地としてである。もっとも古くは氐(てい)族出身苻洪が建てた前秦の長安へ建元二〇年(三八四)に来て訳経に従った曇摩難提が「兜佉勒国人」と記されているが、その前年の三八三年に僧迦跋澄が漢訳した『鞞婆沙論』巻九に「兜佉勒人」「兜佉勒語」などの語が見え、これが支那文献におけるトカラの初出である。大般若経や妙法蓮華経など数々の名訳を残した鳩摩羅什その人は亀茲(クチャ)国出身であるが、彼が五世紀初頭に訳した『大智度論』巻二五には西域の国々として「兜呿羅小月氏・修利・安息・大秦国等」と出てくる。ここではトカラが「兜呿羅」と表記され、小月氏に支配されていたことが分かる。「修利」はソグド、「安息」はパルティア、「大秦国」はローマ帝国あるいは東ローマ帝国を指すと見られる。
 支那正史二四史の中にトカラが登場するのは『魏書』西域伝をもって嚆矢とする。その中で「吐呼羅国」は、

 去代一万二千里、東至范陽国、西至悉万斤国、中間相去二千里、南至連山、不知名、北至波斯国、中間相去一万里、国中有薄提城、周帀六十里、城南有西流大水、名漢楼河、土宜五穀、有好馬、駝、騾。

との記述がある。その境域として「東至范陽国」とあるが、ここに謂う「范陽」は「苑湯」を誤写したもので、「苑湯」とはすなわち抜特山城(バダフシャーン)を擁する苑湯州を指したものであり、南には名も知れぬ連山に至るとあるのはヒンズークシュ山脈を指すと見られる。西と北の境界は誤解されていて、「西至悉万斤国」とあるのは、北に「悉万斤国」つまりサマルカンドと接し、「北至波斯国」とあるのは西方にペルシア国すなわちササン朝のペルシアがある、との意味であろうと修正されている。
 後に一般的となる「吐火羅」という表記が出てくるのは『隋書』西域伝が最初である。すなわち、「吐火羅国はは葱嶺の西五百里に都し、挹怛と雑居し、都城は方二里の規模があり、勝兵一〇万人を擁し、その俗は仏を奉じている」とある。「葱嶺」とはパミール山脈のことで、「挹怛」とはエフタルを指す。その当時、西域の全域を支配したエフタル族が吐火羅国の都城にも支配者として君臨していたことが窺えよう。さらに、この地域が依然として仏教信仰圏であったことも記録されている。
●日本書紀齊明天皇三年(六五七)と六年の条に出てくる「覩貨邏」なる表記は、三蔵法師玄奘の『大唐西域記』に従ったものらしい。玄奘は唐貞観三年(六二七)に長安を出発し同一九年に帰国するまで実に一八年もの歳月を費やしてインドから仏教経典を将来した高僧であるが、インドへの往還の途次に訪れた西域諸国の様子を克明に記録した大旅行記の『大唐西域記』でも有名である。玄奘三蔵は「覩貨邏国」について、昔は「吐火羅国」と呼んだと断わった上で次のように書いている。

 出鉄門、至覩貨邏国(旧曰吐火羅国、訛也)其地南北千余里、東西三千余里、東阨葱嶺、西接波刺斯、南大雪山、北拠鉄門、縛蒭大河、中境西流、自数百年、王族絶嗣、酋豪力競、各擅君長、依川拠険、分為二十七国、画野区分、總役属突厥。

 天山山脈の狭隘な山道を扼するのが「鉄門」、すなわち「鉄門関」である。「鉄門関」を通って出ると、そこがもう覩貨邏国だった。その境域は南北に千余里、東西に三千里あり、東には葱嶺(パミール高原)、西はペルシア、南はヒンズークシュ山脈、北は鉄門関で画される。国の真ん中を縛蒭大河すなわちアムダリア川が西(正確には西北)に向かって貫流する。数百年来、この地に王という者はなく、各地に土豪たちが競い合って支配者に任じ、河川や天険により領域を別にして二七の国に分かれているが、それぞれすべて突厥の支配に服している、と玄奘は伝えている。
 簡単にいえば、玄奘が伝えるところの「覩貨邏国」とは、アフガニスタン北部を中心とする地域で、アムダリア川の中上流域と考えてよい。現代版の政治地図の上では、変遷はあるものの、タリバン政権と対立した北部同盟の支配地域とほぼ重なるであろう。
●この覩貨邏国つまりトカレスターンとわが齊明朝との交流を、商胡(西域商人)が仕立てた交易船が難破・遭難して西国九州に辿り着いた結果の偶然の産物と見る向きもあるが、私はそう思わない。伊藤義教氏や孫崎紀子さんの考証を基にすると、覩貨邏人の指導者だった乾豆波斯達阿はササン朝ペルシア帝国復興のための救援を求めて来朝したことが浮かびあがってくる。唐が積極的に支援しなかったこともはるばるわが国に来朝した原因ではあろうが、ササン朝ペルシアが亡命政権を置いたトカレスターンが当時突厥、正確には西突厥に支配されていたことが与って大きかった。わが国と突厥との深い関係については次稿にて。