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 ササン朝ペルシア亡国譚 
   (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)5月1日第403号) 

●孝徳天皇ないし齊明天皇の時代に、九州の日向・筑紫に漂着したと書紀に記録された「吐火羅國」「覩貨邏國」「吐火羅人」「覩貨邏人」(これ以後は「吐火羅」に統一する)なる表記が、ユーラシア大陸の中央部ともいうべきトカレスターンとその遙かに遠い地域よりの来朝者とを意味したとすれば、さらには孫崎紀子さんの考証によって解明されたように来朝した吐火羅人がササン朝ペルシアの旧王族を意味したとすれば、これはもう一般常識からは「とんでもない話」であって、何の目的あって態々万里の山野と苦難の波濤を越えわが国に来朝したのか、とても信じがたいと言わねばならない。
 しかし、残された証拠を一つひとつ検証していくと、ユーラシア大陸東端に日本海を隔てて位置する日本列島が大陸中央部の動きと深く連動していたことが次第に明らかとなる。ササン朝ペルシアの秘宝ともいうべき遺物が、正倉院に御物として数多く伝来しているが、単に物がやって来たというだけではない。それこそ万里の山野と波濤を越えて態々舶載されるには、その物に籠められた思惑、と言って語弊があるならば意志が、必ずあったはずなのである。
 ササン朝ペルシアと日本列島、それは中央アジアの諸国興亡を通じて深く繋がっていたのだった。
●王朝の創始者をゾロアスター教神官であったアルダシールとするササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教とした最後の王朝でもあったが、世界最強と謳われた騎馬兵団を中核として強勢を誇ったが、西方に隣接する東ローマ帝国との宗教戦争に明け暮れた。だが、ササン朝内部の弱体化を仕掛けたのは、皮肉にも世界最強騎馬兵団の範と仰いだ北方の騎馬民族だった。すなわち、系統不明の謎の民族とされるエフタルと突厥である。
 五世紀初め、まさに吐火羅すなわちトカレスターンから起こったと言われるエフタル族はかつての大夏の旧地を継承すると、たちまち東西および南に勢力を伸ばしていった。インド西北部ガンダーラ地方に進出し「白いフン族」と呼ばれたエフタルは、四二五年にはササン朝領域に侵入、この時はバハラーム五世(在位四二〇~四三八)の反撃を受けてオクサス川の北方まで斥けられている。バハラームの跡を継いだヤズデギルド二世(在位四三八~四五七)の治世末期は東部国境より侵入するエフタルとの戦争に転戦を余儀なくされたが、王は撃退を果たすことなく世を去った。
 ヤズデギルドの二人の息子ホルミズドとペーローズが王位を巡って二年間も争い継承者が決まらなかったことがエフタル族の直接介入を招くきっかけとなった。すなわち、ペーローズはエフタルの支援を受けてようやく王位に就いたのだ(在位四五九~四八四)。だが、このような恩義がペーローズに面白かろうはずもなく、王位に就いて落ち着くと早速対エフタル戦に乗り出す(四六九年)のだが、逆に捕らえられ捕虜となってしまう。ペーローズは代わりに息子のカワードを人質として差し出し、さらには莫大な貢納を毎年納めるという約束をしてやっと解放されという始末である。
 このカワードという王子をエフタルはよほど重宝したに違いない。まるでエフタルに頼り切ったような王だったからである。まず、父ペーローズ一世が性懲りもなくエフタルに再度の戦い(ヘラートの戦)を挑んで敗死すると、ササン朝貴族たちはバラーシュ一世を王位に据えたが、人質だったカワードはエフタル軍に護られて堂々の帰還を果たし、王位をバラーシュより奪回してカワード一世(在位四八八~四九六、四九八~五三一)として即位する。だが間もなく貴族たちとの対立が激化、幽閉の憂き目を見て廃位に追いこまれた。貴族たちは今度はシャーマスブを王位に就ける。ここでまたしてもカワードはエフタルを頼って逃れ、エフタルの支援を受けて帰国する。シャーマスブは抵抗の意志もなく王位返還に同意し、カワードは王位に返り咲いたのだった。
●こうしてササン朝ペルシアに深く勢力を浸透させたエフタルを足元から脅かしたのが突厥だった。中央アジアの広域に覇を唱えたエフタルは東方への備えにも意を用い、太安年中(四五五~四五九)から永煕年間(五三二~五三四)まで恒例として北魏に朝貢使節を送っている。北魏が東西に分かれた後は、西魏にも遣使し、さらには北周にも五五八年に朝貢している。
 だが、この五五八年に突厥西方可汗の室点蜜(イステミ)がササン朝カワード一世の跡を継いだホスロー一世(在位五三一~五七九)と軍事同盟を結んでエフタルに戦いを挑んできたのである。それは主戦地ブハラに因んで「ブハラの戦い」と呼ばれているが、この戦闘は突厥・ペルシア同盟軍の決定的勝利を齎した。従来エフタル領の最重要地域であった石国(シャシュ)、破洛那国(フェルガナ)、康国(サマルカンド)、史国(キシュ)は突厥可汗室点蜜の支配に帰した。このことが隆盛を誇ったエフタルを滅亡へ転落させる分水嶺となったのである。
 まさにエフタルの足元とも称すべきユーラシア中央トルキスタンにおける突厥西面可汗室点蜜の興隆を、本邦に数少ない突厥史研究者の内田吟風は名著『北アジア史研究──鮮卑柔然突厥編』(昭和五〇年、同朋舎刊)の中で次のように指摘している。

 室点蜜とコスロー(ホスロー一世のこと…天童注)との同盟が可成り以前から結ばれていたこと──これは彼の勢力の興起がこの五五八年より更に相当前であったことを物語る──は、この時、室点蜜の軍がさらにペルシア旧領内への侵入を抑えるためにコスローが、室点蜜の娘とコスローとの間に生まれた息子の Horumizd を派遣し、その結果室点蜜が南下をやめた事情からも推察される。
 室点蜜が、木杆可汗より派遣されて、アルタイよりシルダリア方面に西遷したと思わしむる証左は皆無である。この早くよりペルシアと交渉をもっていた事情より見ても、西突厥乃至室点蜜は東突厥乃至木杆可汗とは、別個に独自に、早くより中央アジアに勢力を樹立していたと解すべき公算が大である。(同書四三四頁)

 何と、カワード一世の跡を継いだ息子ホスロー一世は突厥西面可汗室点蜜の娘を娶り、次の王位継承者たる息子ホルミズド四世(在位五七九~五九〇)を儲けていたのである。そうすると、ホルミズド四世の時代には突厥の室点蜜可汗がササン朝ペルシア王の外祖父ということになり、エフタル時代よりもさらに一段と容喙・介入を許すことに繋がる。事実、突厥のササン朝の命運に深く関わりをもつのである。そしてまた、わが国にもササン朝と共に、また独自にも、深い関係をもっていることは、小林惠子(やすこ)氏が室点蜜可汗の子の達頭(タルドゥシュ)可汗を聖徳太子に擬しているのは俄には首肯しがたい奇説だとしても、わが国に残る突厥の痕跡から否定できない。
●しからば、突厥族とはいかなる民族であったか、内田吟風の説明を聞いてみよう。

 突厥(Turk)の源流もまた、他の多くの諸民族同様、はなはだ明瞭でない。隋書突厥伝の伝えるところによれば、
「其の先祖は西海の西岸に住んでいたが、隣国に滅され、男女老若が皆殺しにされた。ただ一児のみが手足をきられて大沢中に捨てられたのを一匹の牝狼が肉を運んで育てた。のち隣国人がこの児をも殺そうとしたので狼は海東に逃れ一山上に止った。その山は高昌の西北にあり、のち狼との間に十男が生れた。その一姓の阿史那氏が最も賢かったので、ついに君長となった」
とある。西海は、隋書の他の各所で用いられている場合は普通カスピ海・ペルシア湾等一帯の海をさすものである。この様な神話伝説に見える西海を直にカスピ海等の現実の地域に比定することは不当であろうが、この西海説話の物語るところは突厥の西方起源を力強く示している。(突厥の始祖伝説は烏孫のそれと殆ど全同である。)
 彼らの伝説的遠祖には阿賢設と大葉護と云った人物が存するが、設(ad)はイラン系称号のahに、葉護(yabγu)は同じくyamaγに由来する。また突厥文字はセム語系のアラム字母に発源している。(同書四三〇頁)

 日本の首都東京は旧国名でいえば、「武蔵国」であるが、家康入府までその中心は現在の府中より西にあった。そして武蔵国の信仰的聖山は御嶽山だった。その御嶽山の信仰圏には大口真神信仰が後半に浸透している。大口真神とはすなわち狼信仰である。突厥がその始祖を牝狼に救われ育まれたと伝えているのも狼信仰の表われである。彼我共通するのは狼の習性に親炙して、深い敬意を払っていたことである。遙か万里の山野を隔てた突厥と日本、それは民族性の深くで繋がっている。