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 七世紀の「世界大戦」と「文明の戦い」 
          (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)5月15日第404号) 

●ササン朝ペルシア帝国の滅亡はイスラム教によって世界史の表舞台に登場したアラブ勢力との対決のみならず、キリスト教を国教とする東ローマ帝国との永年にわたる闘争の終焉を意味した。そして同時に、世界宗教としてのゾロアスター教の地位の失墜をも意味した。
 また、新興のイスラム教アラブ勢力に対する防波堤の役割も果たしていたササン朝帝国が消滅することによって、中央アジアから東アジアまでをも含むユーラシア大陸の広大な地域を大動乱に巻きこむ始まりとなった。
 実に、冷戦の終結以降の時代を規定してきたハンチントンの「文明の戦い」はササン朝ペルシア帝国の滅亡と共に始まっていたのである。ただこの初期の時代においてはヴェネツィア・ユダヤ国際金融勢力が世界の動向に直接関与することがなかったため対決の様相は極めて単純で、「文明の戦い」はそのまま「武力の戦い」と「宗教の戦い」とを意味したのだった。
 中央アジアから東アジアにまたがるツングース系や蒙古系、トルコ系などツラン民族すべてにとっても、ササン朝ペルシアの滅亡は空前の大動乱時代、いわば「世界大戦」ともいうべき時代の幕開けを意味した。
 そして、八世紀中葉のタラス河畔の戦いが終わり、この世界的な大動乱が落ち着いたとき、中央アジアの多くの民族はイスラム教への転向を余儀なくされていた。それはツラン諸民族が古来より保持してきた民族固有の独自の信仰がイスラム色に染められることであり、また世界的大潮流に直接に曝され翻弄されることでもあった。
 ただし、西側からの脅威に一方的に曝され脅かされるばかりではなかった。ツラン民族のイスラム教アラブ勢力に対する反攻も繰り返されたのである。その第一次反攻ともいうべき動きが、西突厥阿史那氏を支配層の中核とするハザール(カザールとも。支那正史では「突厥可薩部」と記される)帝国の樹立だった。ハザール帝国が一神教に偏する南のイスラム教アラブ勢力や西のキリスト教東ローマ帝国との間で数次にわたる大戦争を戦いつつ、自国内ではイスラム寺院やキリスト教会堂、さらにはシナゴーグ(ユダヤ教寺院)などの存立を許す宗教的寛容政策を維持してほぼ三〇〇年の間も存続したことは「文明の戦い」における特筆に値する一章というべきである。
 西突厥を構成したトルコ系諸民族のみならずブルガル族やマジャール族、アヴァール族などの周辺諸民族をも擁する多民族国家ハザールには宗教的な寛容が求められたと言えばそれまでであるが、自然の精霊を崇敬するツラン民族本来の宗教的寛容さがハザール帝国で発揮されたのだと見ることもできよう。
 南と西の両面から一神教の偏執性に挟撃されたハザールは辟易の余りか、国教をイスラム教でもキリスト教でもないユダヤ教に求めることになるが、ユダヤ教国教化の後もユダヤ教を信仰したのは支配層だけで、一般民は従前通り各自の信仰を続けることができたという。他民族によるユダヤ教への改宗といい、ユダヤ教改宗後の寛容性といい、これまたユダヤ教信仰史における奇跡的な例外事件として、注目に値する事象である。
 テムジンことジンギス可汗に率いられた蒙古民族を中核とする元(げん)軍が中央アジアを完全支配し、遠くヨーロッパのドナウ川中流域までも席捲したのは、ササン朝亡き後の西側よりの文明的攻勢を撥ね除けた第二次大反攻だった。
●ササン朝ペルシア滅亡に象徴される七世紀の「世界大戦」的大動乱に際し、中央アジアの中央部においては民族の存亡を賭けた戦闘の果てに、新興のイスラム教に転向するか、ツラン精神の大爆発によって反攻するか、選択肢は限られていたが、アジア周辺地域では様々な選択肢が可能であった。
 わが日本民族がこの「世界大戦」と「文明の戦い」に巻きこまれていく過程は支那および朝鮮半島の動乱と深く連動していた。欽明朝における仏教の伝来はそうした世界的規模における「文明の戦い」が本邦に直接的影響を及ぼす先駆的事件だったと言える。
 改めて言うまでもなく、仏教は世界宗教の一つである。もともとはインド(ネパール)のシャカ族の王子が創始した人間性を全面否定する厭世的宗教であって、人間的苦悩からの解脱を旨とするインド伝統宗教の枠をはみ出るものではなかったが、インド西北部のガンダーラの地にツラン民族大月氏が建てたクシャーン朝において一大変革を遂げることになる。それは人間を苦悩の塊と見て人間性の否定と苦悩からの解脱を目指す厭世宗教から、人間性の中にこそ仏性が本来宿っていると見る人間性の全面肯定いや全面的讃歌への大転換だった。こうして大転換を遂げた仏教は自らを「大乗」(大いなる乗物、万人が拠るべき優れた教え)であると自負して世界宗教への道を歩みはじめる。それはいわば仏教のツラン的大転換とも言うべく、あるいはまたツラン精神の仏教的発揚とも称すべきかも知れない。
 大乗として生まれ変わった仏教は、中央アジアのツラン系諸民族の間に瞬く間に拡がった。支那における本格的な仏教信仰は鮮卑族など北方のツラン系遊牧民族が齎したものである。仏教経典の漢訳も玄奘三蔵による新訳以前に鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)などの「胡僧」と呼ばれた西域僧やインド僧によりほとんど完成されていたが、それは支那から見た西域におけるツラン系諸民族の仏教信仰という仲介役があったればこそ可能となったのである。
 仏教は世界宗教の一つでありながら一神教の酷薄残虐な偏執性とは無縁であった。ツラン民族が本来有する宗教的寛容性によって大転換を遂げていたからである。中央アジアのツラン民族圏がこぞって仏教信仰に傾倒したとき、イスラム教勢力が侵攻したときのような大動乱が起きなかったのも、このためだと考えられる。
●それでも、静かなる「文明の戦い」は仏教受容の中にも潜んでいた。時に勃発した「排仏」の動きがこれを象徴している。本邦における仏教の受容をめぐる崇仏排仏論争は仏教受容の中に潜む「文明の戦い」が敏感に察知されていたからにほかならない。
 蘇我氏の滅亡を齎した「乙巳(いっし)の変」から「大化改新」と「白村江の戦い」を経て「壬申の乱」へと至る古代日本の動乱の本当の意味はいまだ解明されたとは言いがたいが、鄙見によれば、ササン朝ペルシアの滅亡に象徴される七世紀の「世界大戦」そして「文明の戦い」と深く連動しているように思われる。
 特に、支那正史で「五胡十六国」などと貶称された中央アジア遊牧民族の建国興亡の歴史こそ真剣に検討されるべきであると考える。すなわち、匈奴・烏桓・鮮卑・鉄勒・突厥などの歴史である。わが先人たちが短い片言双句の中に深い意味を込めて残した記録に対しても、もっと真剣に取り組まなければならない。
 ほんの一例だが、天智天皇即位前紀の「白村江の戦い」に至る経緯の記述の中に、唐の高句麗侵攻軍を率いる者として「突厥の(とつくゑつ)王子(せしむ)契苾加力(けいひつかりき)」を将軍蘇定方と共に挙げている。日本書紀の執筆者は突厥にも注意を払っていたのである。
 岩波書店日本古典文学大系本の註によれば、「突厥王子契苾加力」とは、

突厥可汗の孫。九歳で唐に帰順。太宗・高宗に仕えて、各地に転戦、左驍衛大将軍となる。新唐書に伝がある。契苾は新彊省焉耆県付近本拠とした部族の名。
(日本書紀下三五二頁頭注一四)

とある。支那語版ウィキペディアでは、

 契苾加力(?~六七七年)、唐初名将、鉄勒人。出身鉄勒可汗世家、哥論易勿施莫賀可汗孫。幼年喪父、在熱海(今伊塞克湖(イシッククル))一帯遊牧……

とあるから、より精確には唐に帰順した鉄勒部族可汗家の出身だったようだ。
 従来の日本史学がせいぜい東アジアの動乱と関連させて日本古代史を解明しようとしたことは、言葉の上だけは「世界史的視野に立って日本史を理解する」などと意図雄大であるものの、その実は自己正当化を旨とする支那の中華史観に毒されたもので、そのうえ事大主義の半島史により二重三重に汚染・湖塗されているために、真実はますます見えにくくなっている。
 再び仏教伝来を例にすると、通説では百済聖明王による贈与によって齎されたとされているが、実はかつて本欄で取り上げたように、鮮卑族拓跋部が建てた北魏経由で「罽賓(けいひん)の僧」によって齎されたという別伝もある。だが、こちらの方は一向に注目されないのだ。罽賓とはまさに大乗仏教を生んだクシャーン朝の所在地ガンダーラないしはカシュミールを謂う漢語表記である。単にインド僧と言わず罽賓僧とあるのも、より精確なのではなかろうか。