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  金策と白村江の戦い 
  (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)6月1日第405号) 

●拉致問題が痼りとなって久しく膠着状態がつづいていた日朝関係に新たな展開があった。五月二六日~二八日までスウェーデンの首都ストックホルムで日朝政府間協議が行なわれていたが、その成果として五月二九日に日朝双方により発表された内容によれば、北朝鮮は今後三週間程度で強力な権限をもつ特別委員会を設置し、「拉致被害者と拉致の疑いのある行方不明者の安否、一九四五年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨と墓地、残留日本人、日本から帰国した北朝鮮人の日本人配偶者など、日本人に関するすべての問題を解決する」意志を表明した。日本は調査の進展を見極めながら独自の制裁を解除するほか、人道支援も検討する、と表明した。北朝鮮との国交正常化こそ、わが国の対米従属半国家状況を打破する切札になると期待されるだけに、今回北朝鮮より新たな方向が提案されたことを歓迎し、この提案が実りある成果を生むことを祈りたい。
●先に北朝鮮は親支那派の張成沢一派を粛正して金正恩体制を再編したが、昨年一二月一二日の張成沢処刑の翌日一三日に金国泰(キムグクテ)労働党政治局員(一九二四年八月二七日生、党中央委員会検閲委員長)が死去し、一五日に金正恩第一書記が弔問に訪れ、一六日の国葬には金永南(キムヨンナム)人民会議委員長をはじめ、朴奉珠(パクボンジュ)首相、崔竜海(チェリョンヘ)朝鮮人民軍総政治局長など北朝鮮首脳が参列して盛大に行なわれ、張成沢処刑と明暗を分けた。金国泰は北朝鮮建国の英雄とされる金策(キムチェク)(一九〇三~一九五一)の長男。本誌では夙に「世界情報分析」において、金策とは日本名を畑中理という黒龍会系の日本帝国残置諜者との説を唱えてきた。「カナダからの手紙」という平尾昌晃とのデュエット曲で一躍有名になった畑中葉子も金策=畑中理の親族で、「喜び組」の指導に当たっているなどという噂もあったが、こちらは真偽の程は不明。金策は金日成による暗殺説もあるなか、金策市(城津市より改称)、金策製鉄所(旧日本製鐵清津製鉄所)、金策工業大学(旧平城工業大学)、金策軍官学校(旧第二軍官学校、現在は金日成政治大学)、金策航空大学(一九五六年新設の空軍養成機関)などの名称にその名前を冠されるほど功績が高く顕彰されている。
 さて先ごろ、その「金策」という名前には格別の意味が込められていたのではないかとの着想を得たので、ここに諸賢のご批判を仰ぎたい。
●七世紀初頭アラビア半島に誕生したイスラム教は中東全域の征服に向かい破竹の勢いで席捲を始めたが、すでにユーラシア大陸各地では数世紀にわたって動乱が続いており、中央アジアのみならず支那大陸中央、東北アジア、朝鮮半島および日本列島も揺れ動いていた。支那大陸中央では後漢滅亡以来三五〇年以上も北方から遊牧民族の侵攻が相次ぎ、三国および南北朝という王朝の並立・興亡が繰り返される動乱の時代を経験していた。
 伊達宗義先生によれば、この間に全人口が半減する苛烈な事態が起きたが、全人口半減という異常事態は支那大陸で三回も起こり、三国・南北朝時代はその第一回目だという。
 遺伝子DNA分析において、女系のミトコンドリアDNA分析でも男系のY染色体分析でも、支那大陸が極めて単純なハプログループの分布しか示さないのは、全人口半減という苛烈な事態を三回も経験したからに相違ない。
 六世紀後半に入ると、鮮卑(柔然とも)系の楊堅が隋を建てようやく南北を統一するに至る。だが、中央アジアでは突厥が、東北アジアでは高句麗が勢力を誇って隋を脅かしていた。隋が突厥を東西に分裂させた(五八三年)などと言われるが、突厥には勢力拡大に伴って東面可汗と西面可汗の制度を設ける必要があり、隋の離間策に屈したわけではない。およそ領域国家の国家概念を以て遊牧国家の制度を測ると、大いに過つことがある。
●統一王朝の隋に対峙したもう一つの勢力が高句麗だった。高句麗第二六代嬰陽王(在位五九〇~六一八)は鮮卑慕容部の旧地遼西(遼河西方、現遼寧省)に靺鞨族と共に侵攻(五九六年)する一方、隋と親交していた突厥啓民可汗(在位五八七~六〇九)に使者を送って隋に対する挟撃を謀るなど対隋包囲網を画策した。
 これが隋の四次にわたる高句麗遠征を招くことになるが、第一次の遠征が三〇万人、第二次遠征は一〇〇万人に及ぶ大軍勢による隋の侵攻を高句麗は辛くも凌ぎ、却って隋の滅亡の遠因をなした。
 隋朝第二代煬帝の失政に対して各地に反乱の火の手が上がったが、最終的に隋を滅ぼしたのは北魏・北周以来の鮮卑系貴族唐国公李淵とその次男世民だった。唐国公李氏の出自をチュルク系高車族とする姚薇元の説もあるが、いずれも北方の遊牧民族が唐朝李氏の出自と考えられている。
 高句麗嬰陽王を継いだ二七代栄留王(在位六一八~六四二)は唐に対して唐暦を乞い道教を受容し世子桓権を入質するなどひたすら恭順姿勢を示し、事大主義に徹した。こうした姿勢を潔しとしない淵蓋蘇文は六四二年クーデタを起こし栄留王ほか一八〇人の親唐派貴族を殺害し、宝蔵王を第二八代の高句麗王に擁立すると共に、行政軍事両面を司る最高職の大莫離支(宰相兼軍長官)に就任して、対唐強硬策に転じた。
 淵蓋蘇文は日本書紀では「伊(い)梨(り)柯(か)須(す)彌(み)」と表記されているが、彼が就任した(大)莫離支は東方セム語のアッカド語やアッシリア語において(小国家の)君主を意味する言葉malikに由来するとの説がある。ササン朝ペルシアでは大臣を意味する言葉として使われ、恐らくは高句麗ではこれを採用したものだろう。高句麗が突厥など北方遊牧民族を通じて西方と深く繋がっていたことの一つの証である。イスラム教を奉じるアラブではやがて非イスラム系の君主を意味する言葉として使われるようになる。
 強硬策に転じた高句麗に対して唐は六四四年一一月に高句麗攻撃を開始、翌六四五年二月には太宗李世民自らも出陣して一七万の軍勢を率いて高句麗戦を指揮した。高句麗は一五万の兵を以て迎え撃ち、いくつもの城を陥落されながらも、安市城や新城、建安城を守り抜いた。唐が高句麗を攻めあぐねて長期にわたると、高句麗戦に陸将として参加していた契苾加力の出身部族鉄勒が唐に侵入して後方を脅かすに至る。冬季を前に兵糧面の憂いもあり、唐軍は六四五年九月ついに撤退する。
 以後、六六一年の第二次、六六七~六六八年の第三次へと続く唐の高句麗侵攻はわが国にも甚大な影響を及ぼしている。
●乙巳の変(六四五年六月一二日)と大化の改新(同六月一四日)はわが国内における政変であったが、唐による第二次高句麗侵攻における両面作戦により百済が滅亡(六六〇年七月)すると、百済復興(実は高句麗支援)を名目に半島への派兵が行なわれ、半島・大陸の動乱に直接的に加担することになった。そして、唐・新羅連合軍との直接戦闘が白村江の戦い(六六三年八月二七~二八日)であった。
 天智天皇即位前紀元年(六六二)三月條に、

 是の月、唐人・新羅人、高麗を伐ちき。高麗、救を國家に乞へり。仍りて軍將(いくさのきみ)を遣して、䟽留城(そるさし)に據らしむ。是に由りて、唐人、其の南の堺を略(かす)むること得ず、新羅、其の西の壘(そこ)を輸(おと)すこと獲ず。

とあるによって、高麗(日本書紀は一貫して高句麗を「高麗」と呼ぶ)からの救援要請があったことが知られる。
 また、ここに謂う「䟽留城」とは、白村江沿岸の都々岐留山(つつきるのむれ)にあった城で、書紀ではまた「州柔(つぬ)」とも記し、新旧唐書には「周留」に作る。この城には百済遺民が拠っていた。また、白村江の戦いでは倭国軍の最後の砦となった城である。
 この高句麗による救援要請に続き、日本書紀同年(六六二)五月條には、

 五月に、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等、船師一百七十艘を率て、豐璋等を百濟國に送りて、宣勅し(みことのり)て、豐璋等を以て其位を繼がしむ。又金策を(こがねのふみた)福信に予(たま)ひて、其の背を撫でて、褒めて爵(かうぶり)祿(もの)を賜ふ。時に、豐璋等と福信と、稽首(おが)みて勅を受け、衆、爲に涕を流す。

とあって、臨場感溢れる描写で豊璋の百済王冊立の情景を伝えている。
 すなわち、ここに「金策」という言葉が出て来るのだが、「金泥で詔勅を記した特別の勅書」(金泥勅書)を意味している。しかも、それは倭国が冊立した新百済王豊璋ではなく、佐平の鬼室福信に与えられている。
 金日成に畑中理を添えるに当たって、「金策」という工作名が与えられたのは、この天智即位前紀元年五月條の、新百済王豊璋の後見を命じた鬼室福信宛の金泥勅書が想起されたからに違いない、と私は考えるのである。