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 渡来人先進文化将来説の荒唐無稽 
          (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)7月1日第407号) 

●九州大学教授中橋孝博氏は二〇〇一年のNHKスペシャル『日本人はるかな旅』にも参画して暴論を提供した張本人だが、その説は渡来人の人口増加率を二・九%、縄文人の人口増加率を〇・一%として弥生時代前期末(紀元元年ころ)のそれぞれの人口をシミュレーションすると、渡来系人口三九万一七八〇人、一方で縄文系人口一〇万二一〇〇人が導き出されるとした上で、渡来人により将来された水田稲作農耕が定着進展するにつれて渡来系弥生人の人口が爆発的に増大し、弥生時代前期末では渡来系七九%(約八割)、縄文系二一%(約二割)という人口比率となった、とするものである。
 この所説は「渡来人がもたらした弥生の人口爆発」と題し単行本『日本人はるかな旅5』(日本放送出版協会、二〇〇二年一月刊)にも収められている。
 NHKにより日本中に垂れ流された中橋孝博「弥生人口爆発説」について長浜浩明著『日本人ルーツの謎を解く──縄文人は日本人と韓国人の祖先だった』は、その数字に如何なる合理的根拠も見当たらない、として全面的に否定している。
 仮に、このままの人口増加率で更に一〇〇年過ぎ、小山氏の定義した弥生時代=一〇〇年になると、日本の人口は六八〇万人を突破する。小山氏はこの時代の人口を約六〇万人としたので、一〇倍以上、奈良時代の人口をも上回る。更に、一〇〇年過ぎ、弥生時代後期の二〇〇年になると日本の人口は、一億人を突破する!  (二一三頁)
 中橋氏の設定した人口増加率は、「ためにする」数値設定だった。三〇〇年後の渡来人比率を八〇%にするために、渡来人の人口増加率を二・九%、縄文人を〇・一%とした。筆者の見るところ、理由はそれだけで如何なる合理的根拠も見当たらない。
 従って、この計算もシミュレーションではなく単なる「試算」である。異常に高い人口増加率が尤もらしく思えたのは三〇〇年間に限定したからだった。この人口増加率では弥生時代後期の人口が一億人を突破し、或いは奈良時代の人口が三億人を突破する。
 氏の推算は、紀元前三世紀ころに渡来人が狩猟採集の縄文時代にやって来た、なる歴史教科書的、司馬・山本的パラダイムを前提に成り立っているが、水稲開始の実年代は紀元前一〇世紀まで遡り、その時代の人たちが潅漑式水田を営んでいたことが明らかになった今、この計算モデルは修正すべき時に来ている。      (二一五頁)
つまり、中橋孝博氏がシミュレーションしたと称する「弥生人口爆発説」なるものは、単に辻褄合わせに数字を弄くっただけの空理空論で、何の意味もない、と言うのである。まことにその通りで、渡来人についても縄文人についても、人口増加率の数字には何の合理的根拠もないのである。
●それでは、なにゆえに北部九州という、かつて水田稲作が花開いた地域の官立最高学府たる九州大学人類学教授が、かかる机上の空論に現を抜かすのかを、百歩譲って問い直してみよう。
 どうやら中橋孝博氏の空理空論は、スペシャル番組『日本人はるかな旅』を製作担当したNHKディレクターの一人、戸沢冬樹氏の要請に応えたものだったように思われる。
 今から二千年余り前の弥生時代、縄文人とは全く別の人々が日本列島に現れる。この時期、大陸からやって来た新たな渡来人である。勿論、縄文時代やそれ以前の旧石器時代にも、日本列島には種々な人が渡ってきた。元を正せば縄文人だってアジアの北や南からやって来た人々の末裔である。
 (『日本人はるかな旅5』二六頁)
 右の文章の冒頭で戸沢冬樹氏が、「今から二千年余り前の弥生時代、縄文人とは全く別の人々が日本列島に現れる。この時期、大陸からやって来た新たな渡来人である」と言っているのは、完全な間違い。この間違った予断に基づいて、この「全く別の人々」たる弥生人が急速に増加した理由の説明を、中橋孝博氏に求めた結果、恣意的な人口増加率による「弥生人口爆発説」なるものが登場したのである。
 実際は、「全く別の人々」がにわかに出現したのではなく、紀元一〇世紀に始まる水田稲作の進展によって次第に食生活などの生活条件が変化し、それに伴って縄文人自身の体型(形態)も変化した、と考えるのが正しい。
 膨大な数の日本人頭蓋骨を計測した東京大学人類学教室の鈴木尚氏は早くに「人の頭蓋骨は時代により変わってゆく」と考えていたが、この考えに従えば、縄文人の骨が時代と共に変化して弥生人の特徴を帯びるようになることも、大いにありうるのだ。つまり、「全く別の人々」であるかのように見えたとしても、それを渡来人と決めつける根拠はないことになる。
「形態人類学」が時代による変化を捉える研究に勤しむならば、立派な学問たりうるだろう。しかし、人種系統論や民族論に口出しするようになると、途端に学問ではなくなる。人骨や歯の特徴により人種を論ずることがかつては人類学の主流であり、われわれの常識にも深く染みついているが、今では「形態人類学」が人種や人種系統を論ずることに疑問が生じている。
 国立遺伝学研究所教授の斉藤成也(なるや)氏は遺伝子分析の立場から「形態人類学」の不可解さについて語っている。
 こうなると最早頭長や頭幅を調べて人類の系統を議論することには、あまり意味がないなあと思ったものである。しかしながら形態を比較して人類の系統を調べている研究者に、頭長や頭幅を比較する項目に加えることが依然として多い。遺伝子の変化を専ら重視する者にとっては甚だ不可解である。
(『DNAから見た日本人』ちくま新書、二〇〇五年、八七頁、長沼前掲著二〇七頁より再引)
 他に手段がなかった時代ならともかく、遺伝子研究などのより確実な新しい手段が発見されたからには、不可解な予断や臆測はきれいさっぱりと捨て去って、われわれの常識も一新したいものである。
●新たな世紀の出発に当たって厖大な公費を費やし、満を持して製作されたはずのNHKスペシャル『日本人はるかな旅』はせっかく新しい知見に逢着したにも拘わらず、新事実を旧態依然たる荒唐無稽の渡来人先進文化将来説という予断によって歪曲したために、多くの矛盾を抱え込むことになった。
 その一つが「渡来人の数」である。この番組を私は同志林廣が作ってくれたDVDで何度も観たが単行本は購入していないので、長沼前掲書によって孫引きさせてもらうと、この番組製作主任の戸沢冬樹氏は先の引用に続いて弥生時代の渡来人についてこう言っている。
 弥生時代の渡来は、それ以前の渡来とは量的にも持続期間の面でも比べものにならない大規模なものだった。人々の渡来の歴史が繰り返されてきた日本列島の歴史の中で、最大の変化を生んだ渡来の波が押し寄せたといってもいい。しかも弥生時代の渡来人は、それまでやって来た人とは全く違う生活様式やものの考え方を持つ異質な人々だった。(『旅5』二七頁、長沼九九~一〇〇頁)
 ところが同じ『日本人はるかな旅』シリーズの第四集『イネ、知られざる一万年の旅』(日本放送出版協会、二〇〇一年一二月刊)では、昭和五五年(一九八〇)から翌年にかけて佐賀県唐津市菜畑遺跡で縄文晩期の縄文土器と共に潅漑施設を伴う水田遺構が発見されたことについて、担い手は縄文人だった、渡来人ではなかった(つまり渡来人ゼロ)と、同集製作担当ディレクター浦林竜太氏が明確に述べている。
 ふつう遺跡の発見というものは、せいぜいその地区内のニュース止まりなのだが、菜畑遺跡は違っていた。いっせいに全国、更には世界にも発信される大ニュースとなったのである。その理由は〝日本最古の水田跡〝にあった。
 年代は二六〇〇年前、縄文晩期にまで遡る。
従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(二三〇〇から一八〇〇年前)頃に、朝鮮半島方面からやって来た渡来民によって始まるというのが定説であったが、菜畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。時代はさらに三〇〇年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることが分かったのである。
(『旅4』九六頁、長沼二五~二六頁)
右に述べる「二六〇〇年前」という菜畑遺跡水田遺構の年代がより正確な「較正炭素14年代」ではさらに紀元前一〇世紀に遡ることは前稿で述べたが、同じシリーズで一ヶ月前に刊行された第四集の成果をまったく無視し「全国、更には世界に発信された」新しい知見を、「覆った」はずの従来の定説・常識によって歪めてしまったのが第五集の製作担当者戸沢冬樹氏だったのだ。