みょうがの旅    索引 

                      

 渡来人は列島に埋没同化して姿を消した 
             (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)7月15日第408号) 

●二〇〇一年放映のNHKスペシャル『日本人はるかな旅』シリーズ第五集『そして〝日本人〝が生まれた』の書籍版(二〇〇二年一月刊行)では、製作担当ディレクターの戸沢冬樹氏が、

「今から二千年余り前の弥生時代、縄文人とは全く別の人々が……大陸からやって来た」
(二六頁)
「弥生時代の渡来は、それ以前の渡来とは量的にも持続期間の面でも比べものにならない大規模なものだった」(二七頁)

として、水田稲作を中核とする弥生時代が

「全く違う生活様式やものの考え方を持つ異質な人々」(二七頁)

である大量の渡来人によって始まった、と主張している。
 現在でも、NHKのオンデマンドの同番組の紹介では、

 ……縄文時代の終わり頃、縄文人とは姿形の違う人々がかつてない規模で、中国大陸や朝鮮半島から日本列島に渡来したことがわかってきました。第5集では、渡来人が最初にやって来たといわれる九州北部から関東へ旅をしながら、この渡来系の人々と縄文系の人々の異文化の融合によって、「日本人」が誕生するまでの過程をたどります。

とあって、大量渡来人が齎した異文化=水田稲作の流入によって弥生時代が北部九州で始まり、やがてそれが関東地方まで拡がったとき、渡来人と縄文人の「融合」から「日本人」が誕生した、と印象づけている。
 また、同集の書籍版の商品紹介文には、渡来人と縄文人との融合説を仰々しく喧伝している。

 約二五〇〇年前、大陸から海を越えてやってきた渡来人たち。その人口増加率は縄文人のおよそ四倍。先住民である縄文人は、彼らとの対立・融合を繰り返し、先進文化を取り込みながら生きのびてゆく。シリーズ完結篇。

 こうした説明を番組で聞かされたり、単行本やネットや書店店頭で目にした人は誰しも、水田稲作が大量の渡来人によって日本列島にもちこまれて生活に一大革命が起こり、それが弥生時代という新時代の始まりとなった、と自然に思い込むことであろう。
●だが、それはまったくの間違いなのである。すでに先号で、長浜浩明氏の『日本人ルーツの謎を解く』に拠って述べたように、九州大学人類学教授の中橋孝博氏の「シミュレーション」なるものに基づく「渡来人人口増加率」も「弥生人口爆発説」も辻褄合わせに数字を弄くっただけの空理空論に過ぎない。
 第五集の政策担当者戸沢冬樹氏は、「量的にも持続期間の面でも比べものにならない大規模な」渡来の波があった、と主張したのだったが、その痕跡が一向に見つからないものだから、大量の渡来人がやって来たのではなく、やって来てから桁違いの人口増加率で人口爆発した、という言い訳、つまり逃げ道も用意しておいたのである。
 では、「量的にも持続期間の面でも比べものにならない大規模な」渡来の実態はどうであったのか。
 長期にわたる大規模な渡来人の流入を高らかに主張した戸沢氏は、書籍版第五集の三〇頁ほど先でも、板付遺跡について、こう断じている。

 板付遺跡はおよそ二四〇〇年前に遡る集落の跡である。発掘されたのは一九七〇年代の末。本格的な水田を持つ稲作集落だった。二四〇〇年前といえば、第四巻でも取り上げた佐賀県菜畑遺跡に次ぐ日本列島で二番目に古い水田である。しかも水田の規模や水利施設の充実ぶりは菜畑遺跡を遙かに上回っていた。大陸仕込みの最先端の文化は、やはりこの地に根をおろしたのである。(『旅5』五七頁、長沼一一四~一一五頁)

 板付遺跡は「大陸仕込みの最先端文化が根をおろした」遺跡だというのである。ところが、である。その舌の根も乾かないうちに、その戸沢冬樹氏がこう言う。

 こうした板付遺跡の発掘結果からは、この集落が大陸からやって来た渡来系の人々によって営まれたと言っても何ら差し支えないように思われた。しかし当時の福岡周辺を眺めてみると、意外にも渡来系の人々の影はそんなに濃くないことも分かってきた。……
 確かに水田稲作という新しい生産活動のためには大陸から新しい農具や工具を持ち込んで使っている。……しかし一方で、土器などその他多くの道具は縄文時代と基本的に変わらないという見方が強い。生活の基本的な部分は、縄文時代の状態がほぼそのまま踏襲されているというのである。(『旅5』五九頁、長沼一一五頁)

 えェー! 「渡来系の人々の影はそんなに濃くない」だって! 「生活の基本的な部分は、縄文時代の状態がほぼそのまま踏襲されている」だって!
 それならば、それは縄文人の集落と呼ぶべきではないのだろうか?
 そこで、ついに「量的にも持続期間の面でも比べものにならない大規模な」渡来の実態が、戸沢冬樹氏自身によって明らかにされる。

 こうした考古学の研究結果から、弥生時代の渡来について……確かに縄文以前の渡来に比べると規模が大きかったことは間違いないが、渡来人が大挙押し寄せたような状況は考えにくい。渡来して来た人の数となると、多く見積もって、数百年で数千人。
 一年ではせいぜい数十人に過ぎない。二家族とか三家族とかごく少数の人々が、長い間にばらばらとやって来たというのが実態ではないか……。
(『旅5』五九頁、長沼一一六頁、傍点長沼)

 これが前代未聞の長期にわたる大量な渡来の実態なのである。どのような神経をしていれば「二家族とか三家族とかごく少数の人々が、長い間にばらばらとやって来た」ことが「大規模な渡来」となるのか、常人にはとてものことに理解できない。
 天下のNHKが新たな世紀の初めに厖大な公費を費やしCGなど新技術を駆使し満を持して世に問うた記念番組の中味はこんなにお粗末だった。
 ふつう、こういう物言いを、斯道の達人である支那人なら「羊頭狗肉」と簡潔に評するかも知れないが、肉文化に馴染まなかった日本人にはいまいちピンと来ない。要するに、詐欺もしくはペテンの類と言うほかない。
●それでは、まともな研究者が言う、本当の「渡来の実態」とはどんなものだったのだろうか。
 確かに、渡来人がやって来た痕跡は存在する。その証拠となるのが玄界灘沿岸に点在する遺跡から一定程度以上に出土する朝鮮系無紋土器、ないしは弥生式土器の影響を受けて朝鮮系無紋土器が変化した擬無紋土器である。
 片岡宏司『弥生時代渡来人と土器・青銅器』(雄山閣、一九九九年刊)は、渡来人の痕跡のある遺跡には二つのタイプがあるとする。
 朝鮮系無紋土器を伴う遺跡は福岡市諸岡(もろおか)遺跡を代表として周辺弥生集落群の中に一一ヶ所認められたが、それは弥生時代前期末に北部九州の弥生人集落の一角、それも住み心地の悪いほんの一角を占めていたが、ほどなく消滅してしまうタイプであり、これを片岡氏は「諸岡タイプ」としている。
 もう一つの擬朝鮮系無紋土器を伴う遺跡は弥生時代前期末から中期前半、およそ紀元前二〇〇年頃から紀元前一〇〇年頃の遺跡で、佐賀県土生(はぶ)遺跡を代表に北部九州に限られ「土生タイプ」と片岡氏は呼ぶ。その数は一〇ヶ所ほどで、「北部九州の弥生遺跡からすれば極わずかだった。それは渡来人集落ではなく、弥生集落の中に渡来人が居たと思われる程度だった」(一〇四頁)と述べている。
 そして、片岡氏はこう結論する。

 そのように多量の朝鮮系無紋土器・擬朝鮮系無紋土器を出土する集落を、周辺の弥生集落とは異なった渡来人集落と認識することはできない。出土土器の割合はなお弥生土器の方が多数を占めていて、渡来人集落だけで完結した集落を構成しているわけではない。
 従って、厳密には〝渡来人集落〝はそれが持つ渡来人主体の集落のイメージではなく、渡来人が居住する集落という理解に止まる。そしてその集団が、いまだ朝鮮半島の生活様式を保持していることは事実であり、弥生社会の中では特殊な存在であったことには違いないのである。
(一〇四頁、長沼二二〇~二二一頁、傍点長沼)

 すなわち、紛れもなく朝鮮半島由来の土器を使用した人々が住んでいた痕跡が北部九州には存在する。しかし、それは独立した「渡来人集落」ではなく、すでに存在していた弥生式土器を使用する人々の集落の中に渡来人がいた、という程度の規模であった。しかも、長期間存在したとされる土生タイプも「一〇〇年後にはこの土器技法も弥生土器文化の中に埋没、土器もろとも同化され、姿を消した」(片岡宏司)のだった。これが「大規模な渡来」の本当の実態だったのである。