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 縄文農耕の成熟と弥生水田稲作 
       (世界戦略情報「みち」平成26年(2674)8月1日第409号) 

●弥生時代早期の始まりがこれまで考えられていたより五〇〇年も遡って、すでに紀元前一〇世紀には九州北部で潅漑式水田稲作が行なわれていたことを国立歴史民俗博物館の研究チームは二〇〇二年秋に発表した。翌年三月と一二月には内外の研究者を集めて詳細な報告会も開かれた。そうした成果が纏められたのが春成秀爾・今村峯雄編『弥生時代の実年代』(学生社、二〇〇四年六月五日刊)である。
 同書の最初に掲げられた藤尾慎一郎「1 韓国・九州・四国の実年代」は弥生時代の始まりをこう述べている。

 B 弥生最古の土器として佐賀県菜畑遺跡9~12層(1)、福岡市板付遺跡37次調査第9層出土土器(2)を測定した。
 較正年代は山の寺式(図3─菜畑1)が前九三〇年~八〇〇年(九一・二%)、夜臼Ⅰ式(図3─板付1)は前五五〇~三九〇(六六・三%)、粗製深鉢(図3─板付2)は前九〇〇~七九〇年(九五・四%)であった。夜臼Ⅰ式は極端に新しい年代が出ているが、あとの2点は夜臼Ⅱa式以前の年代と調和的である。しかしまだ山の寺・夜臼Ⅰ式の測定数が少ないのでこの3点から直接年代を絞り込むことはできない。
 C 夜臼Ⅱa式は橋本一丁目遺跡(4)、菜畑遺跡8下層(1)、白梅(1)と、同じ時期の梅白(ママ)の杭(2)である。較正年代は橋本1(図3)が一番古い九九〇~八二〇calBC(九五・七%)を示し、あとは八九〇─八四〇~七九〇─七六〇calBC(九五~八三%)と新しい年代を示すが土器のうえでは形式差を認めることはできない。……
 そこでA(引用では省略、縄文晩期末の黒川式新段階)~Cの関係から、弥生時代の開始年代について、統計学的に示せば次のようになる。
 まず上限をAから、下限をCから絞り込み、それに山の寺式1点の年代を考慮して統計学的に処理すると、九四五~九一五年の間に九五%の確立で黒川式新段階と山の寺式の境界(つまり弥生時代の始まり)を絞り込むことができる。その意味で、潅漑式水田の出現は前一〇世紀を下ることはないと考えられる。(同書一一頁)

 九州北部において弥生時代早期を示す土器として編年に用いられてきたのは古い順に、山の寺式、夜臼Ⅰ式、夜臼Ⅱa式土器であるが、それらの土器のAMSによる炭素14測定から、弥生時代早期の実年代は紀元前一〇〇〇年から前七五〇年ころに定められるようだ。この年代は支那大陸中原における周の成立(紀元前一〇二七年)から周宮室が衰微東遷して春秋時代が始まる(紀元前七七〇年)までの時期とほぼ重なることになる。
●こうして弥生時代の実年代が確立されたことで、これに基づく各分野での研究成果が今後陸続として出てくると期待されるのだが、縄文時代晩期末の黒川式新段階から弥生時代早期の山の寺式、夜臼Ⅰ式および夜臼Ⅱa式への移行が断絶を伴う劇的な交替によってではなく、時期を同じくする併存期を経てスムースに行なわれたことは重要である。
 なぜなら、それは縄文人がみずから潅漑式水田稲作とそれに伴う新しい生活を始めたことを意味するからである。しかし、少なくとも六〇〇〇年前から焼畑稲作に習熟していた縄文人にとって水田式稲作は単なる耕筰方式の変更くらいの変化しか意味しなかったのではなかろうか。
 縄文時代前期(六〇〇〇~五〇〇〇年前)の岡山県朝寝鼻遺跡(岡山市北区津島東)出土のプラントオパールは今から六四〇〇年前に米が栽培されていたことを証明したし、その南方の彦崎貝塚(岡山市南区灘崎町)からは、約六〇〇〇年前の地層から大量のイネのプラントオパールと共に、小麦、黍、稗、高梁などの雑穀も少量ながら発見されている。総合地球科学研究所主幹の佐藤洋一郎氏は『縄文農耕の世界』(PHP新書、二〇〇〇年刊)などで、縄文早期から晩期までの遺跡のうち、イネのプラントオパールが出土する例を三一も数えている。
●『日本人ルーツの謎を解く』の中で長浜氏は「ここに至り、〝縄文稲作論〝は確定したと言ってよいだろう」と述べた後に、こう言っている。

 今にして思えば、弥生時代に朝鮮半島からやって来た渡来人、渡来人のもたらしたとされるコメづくり、コメと皇室、それと今の日本人が結びつくというのは、何ものかによってわが国に混入された「偽」が描きだす蜃気楼だった。
 即ち、皇室において十一月二十三日に執り行われる新嘗祭とは、新穀である五穀、稲、麦、粟、稗、豆を天神地祇に勧め、天皇自ら食し、収穫に感謝する祭祀であるが、そこにはコメ以外に麦、粟、稗、豆が含まれており、それらは決して弥生時代以来の伝統ではなく、その根は深く縄文時代にまで達していたのである。(長沼四五頁)

 この恵まれた火山島弧において世界に先駆けて「定住革命」(本誌二八四~二八五号巻頭言)を成し遂げた縄文人は青森県三内丸山遺跡に見るように、当時の主食の栗をはじめ多くの食物を栽培によって獲ていたことが明らかになっている。
 縄文時代を狩猟採集に基づく野蛮な時代、弥生時代を水田稲作開始による革新的時代と捉える単純な図式では、わが文明の骨肉に触れることはとてもできないのだ。縄文・弥生以来連綿として一貫するもの、それこそが日本文明の精髄であり、わが皇室祭祀の中核にある。
 そして、如何に努力を傾け、精緻を尽くそうとも、しょせん食物をもたらすのは自然の恵みである。このゆえに、収穫された食物をまずは「天神地祇に勧め」、しかる後に「天皇自ら食し」て自然に感謝する祭祀がもっとも重要だったのである。
「食(を)す」が同時に「治(を)す」を意味するという日本語の不思議こそ、栽培農耕がすでに縄文時代中期には労働システムとして成熟していたのではないか、という推測を可能にさせる。
 決定的な類縁関係を近隣言語との間に見つけられない日本語は、しばしばバスク語などと同じく「孤立語」とも言われるが、その最大の理由は日本語(原始日本語)の言語としての誕生が非常に早かったという点にある。
 少なくとも、今から六〇〇〇年前、つまり紀元前四〇〇〇年ころには言語としての基本骨格を形成し終えていたと考えられる。不思議なことにそれは、熱帯ジャポニカ米の焼畑稲作が列島の広範囲に展開した時期と見事に重なるのである。
 どの時期に、どの場所に、どの種を播くか、すなわち天文を読み、地質を弁え、五穀を知り、季節の移り変わりと暦に通じることが、栽培農耕の基本にあった。それは自然に耳を傾け、自然の教えに従ってはじめて出来ることである。自然に習うことによって縄文人は集団成員各自の役割を割り振って栽培農耕を行なっていたに違いない。
 こうした栽培農耕に基づくトータルな労働システムの運営が、言語なしに行なわれたとは信じがたい。日本語の成立と縄文農耕の成熟とは、ほとんど軌を一にしていたと考えるのが自然である。
●してみると、集団的な労働システムの運営をすでに行なっていた縄文人にとって、従来の焼畑稲作に水田稲作を取り入れることがさほど革新的だったとは思えない。
 水田稲作が圧倒的な魅力に満ちた革命的な生産様式だったとするならば、従来の焼畑稲作は弊履の如く打ち棄てられて顧みられなかったはずである。ところが、焼畑による陸稲(オカボ)の栽培はつい先ごろ、米余りによって減反政策を余儀なくされるまで続いていたと記憶する。すなわち、つい最近まで陸稲栽培と水稲栽培とは並行的に行なわれ併存していたのである。
 それは縄文農耕の労働システム運営の中核にあった「自然に学び……地質を弁え」るという知恵によって適地に適種が選別的に播種栽培されたからにほかならない。
 このように集団的労働システム運営の域にまで達していた縄文農耕の成熟を意図的に無視し「野蛮な狩猟採集経済段階」と決めつけた上で、渡来人による水田稲作の開始と弥生生活革命、それによる人口爆発などを描いて見せたNHKの『日本人はるかな旅』が、考古的・歴史的事実を歪曲する児戯にも等しい欺瞞であったことは、もはやこれ以上の贅言を費やすまでもなかろう。